五代茂右衛門正綱と門人  [社寺名で検索]   [その他の後藤流]   index系譜図へ

[二十四考・その他見立て絵図]  [日本年号・江戸時代]


東都後藤茂右衛門本流

初代正綱から三代茂右衛門後藤正常(初代正綱二男)を祖とする東都住彫工を
『後藤茂右衛門東都本流』と呼ぶこととする。

『後藤茂右衛門東都本流』は『彫工左氏後藤彫工世系図』によると、
五代茂右衛門後藤正綱まで掲載されているが五代正綱には優秀な門人が多数おり、
江戸時代後期には東京をはじめ神奈川・埼玉・千葉・茨城県で活躍している。

また、長坂猪之助友雅(三代正常門人)も門人多数育成、
小松家など東都後藤本流の隆盛に貢献している。

六代茂右衛門以降の後藤流は二代茂右衛門後藤正道(初代正綱男)を祖とする、と
三代茂右衛門後藤正常(初代正綱次男)そのまま東都後藤流を名跡した説とがある。
九代茂右衛門までは名跡者不明で十代茂右衛門は常州の[十代茂右衛門後藤正忠](笠間住・官工)である。

十代茂右衛門後藤正忠は二代茂右衛門後藤正道の系統と記している。

<管理人の推測>・・・後藤茂右衛門東都本流

五代茂右衛門後藤正綱(源次郎)には優秀な門人が多く、
年代や作品の数から六代茂右衛門は二番目の門人・後藤富五郎。
名跡後、不慮の事故で急死。

七代茂右衛門名跡者は六番目の門人・後藤亀之介。
成田山新勝寺の仁王門彫刻は傑作だが、これしか作は発見されていない。
しかも富五郎と同じく退官後の作と記録は無い。

八・九代茂右衛門は皆目見当が付かない。
実に不気味な後藤茂右衛門名跡劇である。


[後藤藤太郎一重](茨城県北相馬郡北方村)は川口神社・拝殿に
後藤拾三代目と刻銘しているが、茂右衛門とは刻していない。

『東都後藤茂右衛門本流・系譜』

※門人の数は『彫工左氏後藤世系図』に掲載されているものです。

『東都後藤茂右衛門』


[初代後藤茂右衛門]
(東都産橋本町住)
後藤正綱(正紀)

[二代後藤正道]
(正綱・男)

[三代後藤正常]
(正綱・二男)

[四代後藤正響]
(正常・門人、
後三代磯辺儀左衛門)

[五代茂右衛門後藤正綱]
(正響・門人、後源次郎)
(五代後藤正綱門人10人) 名跡及び主な門人 備考
[後藤三治郎橘恒俊]@
(東都京橋住)
(独立ページ)
[恒徳]
(二代三治郎名跡)
後藤三治郎橘恒徳

[後藤義光](千倉住)
後藤利兵衛橘義光
(独立ページ)

[後藤梅甫徳清](水戸住)

(門人は義光だけが掲載)
     *
三治郎恒俊は
作品多く、独立ページ
[後藤富五郎藤原正信]A
(武州大師河原住)

→岩次郎@
(二代富五郎名跡)
後、[後藤岩五郎]

政治郎(武州品川住)A

富之助(同国保口村)B

亀次郎(同国神奈川住)C

→國蔵(国三)[一元国三]D
十五才時後藤國蔵藤原正房

[勇次郎](弥太郎名跡)E
後藤勇次郎経廣

[清蔵]川崎住F
沢本靖太郎(伊奈村住)

豊治良(江戸芝中門前住)G

八十吉(武州一之津保産)H

(門人は9人)
     *
富五郎は
神奈川県に
作品多いハズだが
あまり発見されていない
[後藤安五良常善]B
(東都)

[鈴木多門豊賢](門人)
香取郡古内村住
[鈴木市右衛門鶴鳴]の倅

(門人は掲載されていない)
安五良常善は
東葛地区に作品が多い
→鉄之助C

→清吉D
作未発見
[後藤亀之助]E
(東都)職名は不明
(門人は掲載されていない) 亀之助
成田山仁王門は上手だが
他は未発見
徳次郎F
後藤徳次郎
明治初年の作あり

→金蔵G

→又次郎H
作未発見
[後藤弥太郎氏前]I
(深川六間堀住)
正綱の末弟門人
明治時代まで存命
[勇次郎]
(二代弥太郎名跡)
※富五郎・門人

[松本良山]
仏師から板彫りの修行

幾次郎(上総茂原産)@

権治良(江戸)A

惣治良(江戸)B

庄吉(江戸)C

浅治良(江戸)D

(門人は5人)
     *
弥太郎は
深川住だが作品の多くは
戦災焼失している
可能性大
[TOP]

後藤正綱・・・五代茂右衛門 名人 四代後藤正響門人 源次郎 羽州産(山形県)
崇源院様・天英院様御修理・御用勤[二代小沢五右衛門]

寛政、享和、文化(1789〜1817)頃の人とあるが、御用勤期間は長いと考えられるが、
この間六代茂右衛門(二代茂右衛門後藤正道系)に名跡していると想われる。

優秀な門人を多数輩出し、[長坂猪之助友雅]と共に東都後藤本流の隆盛に多大な貢献をしている。

十代茂右衛門後藤正忠は官工(御用勤)と墨書きしているので、
当然六代茂右衛門以降も御用勤であったと考える。

五代茂右衛門後藤正綱は幕府御用勤であり一般作は文化時代以前には無いようだ。

天保年間以降の作は下記が判っているが、
天保十二年、六代茂右衛門は常州に譲渡(名跡)されていたと考えられる。

天保十二年(1841)は江戸芳町、嘉永六年(1853)は東都本所石原埋堀

[金比羅神社](栄町北辺田)
天保十二年(1841)
[諏訪神社](佐原市佐原)
嘉永六年(1853)
額縁彫刻(成田山新勝寺・光明堂裏)
[TOP]

金比羅神社(印旛郡栄町北辺田)本殿 [金比羅神社・本殿](印旛郡栄町北辺田) 04.05.11

彫工

後藤茂右衛門(江戸芳町) 天保十二年(1841)

「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補追」

本殿左右の胴羽目は「竹林の七賢人」

向拝竜
[正面]
[左]
[右]
木鼻
[左]
[右]
胴羽目
[左]
[背面]
[右]
[妻側・左]
[背面・上]
手挟み
[左]
[右]
登高欄下
[羽目板左]
[羽目板右]
欄干下羽目
[01]
[02]
[03]
[04]
[脇障子・右]
05.07.18 参拝

中が暗いのでうまく撮れていない。
この覆屋も近年改築するようです、中の彫刻がよく見えるようにするらしい。

本殿向拝竜
[左]
[拡大]
木鼻獅子
[左]
[右]
頭貫獅子
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
背面胴羽目
[全体]
[顔拡大]
04.05.19 画像追加

[覆屋]
[本殿懸魚]
[妻側・左]
欄干下羽目
[獅子01]
[獅子02]
[獅子03]
[獅子04]
本殿全景
[左前方]
[左後方]
[右後方]
[右前方]
[上へ]
諏訪神社(suwa-s)・佐原市佐原イ1020番地3・祭礼日10月第2金土日・[由緒] 03.07.14

[諏訪神社](香取市佐原イ)

祭神・建御名方神 拝殿向拝虹梁・火炎竜・向拝木鼻獅子/本殿・妻飾り・破風の懸魚
由緒沿革によると、天正十七年(1590)の創立と伝えている。昭和5年に郷社に列する。

嘉永六年(1853) 棟札

彫刻師
東都本所石原埋堀
後藤源次郎


源次郎は五代後藤茂右衛門名跡 後藤正綱
名人、羽州産、寛政・享和・文化頃の人と彫工世系図にある。

上記のように源次郎は名跡前の名だが
ここでは名跡を六代以降に移譲した後の作で、佐原の山車彫刻も嘉永年間の作である。

拝殿
[正面]

[向拝正面]

[全景左]

[向拝右]
拝殿
[向拝中備]

[竜拡大]

[竜裏]
拝殿
[向拝木鼻左]

[木鼻右]
本殿
[左から]

[後側]
本殿脇障子
[左側]

[右側]
04.12.11参拝

拝殿


[拝殿懸魚]
拝殿

[向拝竜]
[拡大]
[角度替え]
[拡大]
拝殿木鼻

[左]
[右]
本殿頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
本殿脇障子

[左]
[右]
[TOP]
額縁彫刻(成田山新勝寺・光明堂裏) 05.03.27

藤 雪景 敬書
彫工 後藤正綱
願主 亀甲講

後藤正綱の刻銘は御用勤退官後、天保年間以後のようだ。


[滑川観音・観音堂額]  [藤 雪景]

嘉永七(1854) 申寅
四月吉日
藤 雪景 作書

[全体] [刻銘] [額上] [額下] [拡大] [拡大]
[上へ]

後藤弥太郎氏前・・・五代後藤茂右衛門正綱の門人で末弟子、深川六間堀住。

二代弥太郎は[後藤勇次郎経広](後藤富五郎門人)が名跡

刻銘・資料等あり
*
[長念寺・山門](川崎市)「棟札」
嘉永七(1854)年上棟
「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
[吾妻神社] (木更津市)「推定」 [鶴ヶ谷八幡神社(館山市)]向拝竜「推定」
[荏原神社](品川区南品川)「推定」

長念寺・山門(川崎市多摩区登戸) 05.01.29

嘉永七(1854)年上棟

當所大工棟梁・小林彌太郎信久
大工脇棟梁・小林佐吉作清
江戸深川彫工・後藤弥太郎氏前

山門は、棟札によると、嘉永七年(1854)に上棟された建物で、
大工棟梁は地元の小林弥太郎信久、脇棟梁は小林佐吉作清、彫工は江戸深川の後藤弥太郎氏前である。
小林弥太郎信久は、長念寺本堂の棟梁小林源三郎の子息と考えられる。
また後藤弥太郎氏前は彫工・後藤家五代正綱の門弟で、
深川六間堀に住み、当時名の知られた彫工であった。
『川崎市教育委員会』

[小林佐吉][稲荷社]棟札にも登場するが、[幕府作事大棟梁・和泉但馬]の門人と想われる。

棟札・・・(川崎市教育委員会調べ)

[山門]
[虹梁正面]
[虹梁・表]:王子喬
[虹梁・中]:玉巵
[拡大]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[虹梁・左]
[虹梁・右]
頭貫
[左]
[右]
門脇
[欄間・左]
林和靖
[欄間・右]
西王母
力神
[左]
[右]

[左]
[右]
袖蟇股
[左]
[右]
裏木鼻
[左]
[右]
[上へ]

後藤徳次郎・・・五代後藤茂右衛門正綱七番目の弟子。

春日神社(西多摩郡日ノ出町平井3690) [地図] 祭礼九月二十九日頃の土日

加美町 明治初年立川市砂川三番組新調 彫師 後藤徳次郎


後藤亀之介・・・五代後藤茂右衛門正綱六番目の弟子。

上手なのですが、なぜか作品があまり発見されていない。

<管理人の推測>
亀之介は五代茂右衛門の門人であるから、当然後藤茂右衛門を名跡することが出来る。
六代茂右衛門を兄弟子の富五郎が名跡したとして、
何らかの理由で突然他界したとすれば亀之介の兄弟子は当時全て独立しているので、
亀之介が七代茂右衛門名跡説が浮上する。

しかし、名跡して何時御用勤を退官したのか記録は無くその後の作品も見あたらない。

成田山新勝寺仁王門 文政十三(1830)年建立 02.12.23

[成田山新勝寺]

欄間「天保二年(1831)・後藤亀之介」は五代後藤茂右衛門正綱門人。

[成田山探検隊]仁王門

[仁王門]
下から
[欄間01]
弾琴翁
と童子
[欄間02]
唐松に
机上で書
をする人物
[欄間03]
軍鶏を篭に
追いやる
唐子
[欄間04]
司馬温公
瓶割りの図
[欄間05]
囲碁
[欄間06]
展書
[欄間07]
太鼓を叩き
踊る唐子
[欄間08]
獅子舞を
する唐子
[欄間09]
樹に孔雀
三羽
[欄間10]
桐に鳳凰
三羽
[資料]
05.05.07参拝

仁王門
[前部]
[後部]
[懸魚]
[持送01]
[持送02]
欄間左
[01]: 弾琴翁と唐子
[02]:唐子獅子舞
[03]:踊る唐子
欄間後
[04]:展書
[05]:囲碁
欄間右
[06]:瓶割りの図
[07]:鶏を籠に追いやる
[08]:書画
木鼻前部
[00]
[01]
[02]
[10]
木鼻左側
[03]
[04竜馬]
[05]
木鼻後側
[06]
[07]
木鼻右側
[08]
[09]
[上へ]

後藤安五良常善・・・五代後藤茂右衛門正綱の門人、三番弟子。

千葉県文化財実態調査では東海寺随神門(県指定)、他は全て管理人による調査です。
後藤氏彫工世系図には安五良としか掲載されていないので常善は別人と想われていた。

五代後藤茂右衛門正綱の筆頭門人・[後藤三治郎恒俊]
構図・作風が酷似しているので注意を要する。

安五良常善の彫刻には判りやすい特徴がありますので、
これだけの数になりました、まだ数個所在ると思われますがもう少し調査・研究が必要です。

刻銘では
布施弁天・楼門:文化七年(1810)〜実相寺・鐘楼:安政元年(1854)までの作(刻銘)が確認されている。

『千葉県調査資料』と管理人の推定から

[香取神社](柏市沼南町箕輪)「推定」本殿:文化三年(1806)
[多宝院・観音堂](印旛郡栄町酒直)「推定」:文久一年(1861)と掲載されている。

以上により行年は長く多数の作品在り、後藤本流の中で最も人気があった彫物師と考えられる。

*****************************

最近管理人の研究では[香取郡の彫工・鈴木多門豊賢]が後藤安五良常善の門人になるようだ。
鈴木多門の父市右衛門鶴鳴と叔父佐右衛門景賢は[香取郡嶋村系]の彫工だが、多門の構図・作風は後藤流。

鈴木市右衛門鶴鳴は倅の多門豊賢を後藤安五良常善の元で修業させたと想われる。

鈴木多門の刻銘は[安産大神]の向拝竜裏あるものが初見である。
それ以前の作もあると想われるが、刻銘は発見されていない。
鈴木多門豊賢の構図・作風は師匠・後藤安五良常善の構図・作風を踏襲している。


刻銘・資料等あり
*
[布施弁天・東海寺・随神門](柏市布施)
刻銘:文化七年(1810)
[昌福寺・不動堂](野田市関宿町)
建立:文化十五年(1818)
[実相寺・鐘楼](野田市関宿町)
建立:安政元年(1854)
[実相寺・山門](野田市関宿町)
建立:文政元年(1818)

「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
東京都
*
[海雲寺](東京都品川区)「推定」 [天妙國寺](東京都品川区)「推定」
埼玉県
*
神奈川県
*
[六塚稲荷神社・本殿](川越市元町)「推定」
建立:文政二年(1819)
[明長寺・山門](川崎市)「推定」
[実正山・定林寺](秩父市桜木町)「推定」
千葉県
*
[長命寺・本堂](野田市)「推定」 [宗英寺・本堂](野田市)「推定」
[二宮神社・拝殿](船橋市三山)「推定」 [須賀神社・向拝](船橋市神保)「推定」
[王子神社・本殿](船橋市飯山満)「推定」
[葛飾八幡宮・鐘楼](市川市八幡)「推定」 [手児奈霊堂](市川市真間)「推定」
[法華経寺・祖師堂](市川市中山)「推定」 [法華経寺・刹堂](市川市中山)「推定」
[香取神社](柏市沼南町箕輪)「推定」
本殿:文化三年(1806)
[長泉寺・山門](柏市花野井)「推定」
[香取神社・本殿](柏市藤ヶ谷)「推定」
本殿:文政八年(1825)
[八幡神社・本殿](八千代市吉橋)「推定」 [八幡神社・本殿](佐倉市臼井八幡台)「推定」
[宝泉院・鐘楼](印西市別所)「推定」 [稲荷神社・本殿](印西市草深)「推定」
[宗像神社](印西市船尾)「推定」 [観音寺・本堂](印西市浦部)「推定」
[熊野神社](印西市高花)「推定」
[多宝院・観音堂](印旛郡栄町酒直)「推定」
建立:文久一年(1861)
[一之宮神社・拝殿](印旛郡栄町矢口)「推定」
拝殿再建:文化六年(1809)以降
[東漸寺・不動堂](本埜村中根)「推定」 [愛宕鳥見両社](本埜村笠神)「推定」
改築:文政十年(1827)
[観福寺・不動堂](香取市牧野)「推定」
建立:文化十五年(1818)
[観福寺・大師堂](香取市牧野)「推定」
建立:文政十二年(1829)
[善導大師堂](成田市松崎)「推定」 [須賀神社・本殿](成田市名古屋)「推定」
[熊野神社・本殿](成田市南羽鳥)「推定」
[本国寺・本堂](大網白里町大網)「推定」
嘉永元年(1848)向拝再建
[三上神社・本殿](夷隅郡大多喜町)「推定」
本殿再建は文久二年(1862)
[光明寺・七面堂](木更津市)「推定」

[谷中の寺院](東京都台東区谷中)
*
[瑞輪寺・お堂](谷中)「推定」 [本寿寺・祖師堂](谷中)「推定」
[随龍院・了ごん寺](谷中)「推定」 [上聖寺](谷中)「推定」

研究の余地有り
*
[飯縄神社・鐘楼](八千代市萱田)「推定」
建立:文化十一年(1814)
木鼻獅子頭は後藤流初期の構図
[東海寺・鐘楼](柏市布施)「推定」
創建:文化十五年(1818)
竜・獅子頭がなく、判定が困難
[須賀神社・本殿](干潟町鏑木)「推定」 『千葉県の近世社寺建築』によると
文政七年(1824)の記述、よって後藤安五良常善だが、
しかし、作風は[十代嶋村俊明]
[八剱神社・拝殿](習志野市鷺沼)「推定」 木鼻獅子と貘は後藤安五良常善
向拝竜は[長坂政右衛門恒教]「推定」

昌福寺・不動堂(野田市関宿台町) 04.12.23 参拝 [昌福寺・不動堂]

もともとは江戸町の不動院にあったもの、廃寺になったことから昭和30年昌福寺に移された。

文化十五(1818)年四月吉日 建立・・・お堂欄干擬宝珠

向拝蟇股(司馬温公・瓶割りの図)裏の刻銘

   彫工
     後藤安五良常善
東都

構図・作風は三治郎恒俊と酷似しているが、獅子の脚に常善独特の特徴が観られる。

[不動堂]
[石灯籠]
[資料]
[向拝正面]
[蟇股]
[拡大]
[刻銘]
[木鼻・左]
[獅子拡大]
[木鼻・右]
[獅子拡大]
羽目板
[堂・左側]
[黄石公]
[拡大]
[費長房]
[左03]
花鳥
羽目板
[堂・右側]
[張良]
[拡大]
[右02]
花鳥
[右03]
波に鷹
頭貫・左

[01]
[02]
[03]
[04]
頭貫・後

[01]
[02]
[03]
[04]
頭貫・右

[01]
[02]
[03]
[04]
[後藤安五良常善]
布施弁天・東海寺・柏市布施1738 03.04.29

[布施弁天]

随神門(楼門) 大工は布施の籐十郎 建立文化十年(1813)

刻銘
文化七年四月
  後藤常善鏨之○=花押

蜃(しん)=蜃気楼を生み出すと考えられた霊獣。
蜃が吐いた気でできる楼(建物)の意。

[楼門01]

[楼門02]

[額]
「最勝閣」
[竜]

[刻銘]
表側
斗組尾垂木
蜃(しん)

「頭貫獅子」
蟇股は花鳥図

[左部]

[右部]
裏側
斗組尾垂木
蜃(しん)

「頭貫獅子」
蟇股は花鳥図

[左部]

[右部]
欄間

[中央]
「唐子と寿老人」

[左]
「桐に鳳凰」

[右]
「松に孔雀二羽」
[力神]
「松に力神」
追加画像 04.08.13

[随神門裏上] 随神門上
[竜]
[裏・上から]
[裏・下から]
随神門頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[後藤安五良常善]
実相寺・鐘楼 (野田市関宿町) 05.03.26 [実相寺](野田市)

寺の資料によると、山門は文政元年(1818)、鐘楼は安政元年(1854)
[実相寺・山門]も作風が似ているので、常善作の可能性があります。

文化七年(1810)〜安政元年(1854)で44年間彫物師を生業として、
初期とこの鐘楼安政年間の作は大分作風が変化している。
刻銘が発見できなかったら、彫工不明と掲載したであろう。

鐘楼・木鼻獅子腹部に刻銘

彫工
  後藤常善

[全景]
[資料]
[刻銘]
[腹部04]
正面
右から
[01]
[02]
[03]
[04]

右柱から
[05]
[06]
[07]
[08]
実相寺・山門・本堂・鐘楼(野田市関宿町)「日蓮宗」 04.12.23 参拝

本堂:明和三年(1766)建立

山門:文政元年(1818) 作風は後藤安五良常善「推定」と酷似☆☆☆

鐘楼:安政元年(1854) 後藤常善

鐘楼
[本堂] [鐘楼]
木鼻獅子
[01]
[02]
[03]
鐘楼
木鼻獅子
[04]
[05]
[06]
[07]
山門
[山門正面]
[右から]
[資料]
懸魚
[表]
[中備・表]
[後]
[中備・後]
蟇股
[表]
[裏]
[中]
[裏]
[後]
虹梁・表
[左]
[右]
木鼻
[表・左]
[右]
[後・左]
[右]
妻側
[頭貫・左]
[右]
[後藤安五良常善]
一之宮神社(印旛郡栄町矢口一番地)本殿・拝殿 例祭日二月二十日 04.05.11

[一之宮神社](印旛郡栄町)

本社は延長二年(924)九月十九日に祀られたと伝えられる(佐倉風土記)
現在の社殿は天明五年(1785)に建造され、
その後文化六年(1809)八月の大風で破損したため、
大修復が施されたことなどが、所蔵される「棟札」の記録からうかがわれる。

[本殿の彫刻]は棟札によると

常州彫物師 鹿島作兵衛 天明五年(1785)・・・千葉県印旛郡栄町神社棟札集成より

[案内板]
[資料]
[本殿]
[妻側・右]
拝殿
[向拝竜]
[拡大]
[裏]
[木鼻・左]
[拡大]
[木鼻・右]
[拡大]
手挟み
[左]

[右]
軒下蟇股
[左側]
[正面01]
[正面02]
[正面03]
[蟇股正面04]
[右側]
[頭貫]
05.07.18 参拝

明治四十五年三月一日、一之宮神社拝殿葺替棟札

拝殿向拝竜・木鼻獅子・頭貫獅子の構図、作風は後藤安五良常善「推定」☆☆☆

境内左右の石灯籠石刻年代

天保八年丁酉秋九月吉日

神社境内石刻
[石刻年代01]
[石刻年代02]
[向拝竜拡大]
拝殿向拝木鼻
[左]
[右]
拝殿頭貫左側
[01]
[02]
[03]
[04]
拝殿頭貫右側
[01]
[02]
[03]
[04]
手挟
[左]
[右]
拝殿蟇股
[獅子図01]
[獅子図02]
[獅子図03]
[獅子図04]
[獅子図05]
[後藤安五良常善]
長命寺(野田市上花輪)・本堂 04.09.11 [長命寺](野田市)

本堂内陣に欄間あり。

本堂向拝木鼻の構図・作風は後藤安五良常善「推定」☆☆☆に相違なし。

長命寺
[本堂]
[木鼻左]
[木鼻右]
本堂虹梁
[左]
[右]
[後藤安五良常善]
海雲寺・品川区南品川3-5-21 04.05.30

曹洞宗 [海雲寺](南品川)

千躰荒神は台所の防火の神として深い信仰を集めている。
大祭は3月と11月の27、28日。
参道沿いに名物釜オコシやくず餅を売る露店が軒を連ねる。

刻銘発見出来ない、本堂向拝は構図・作風から後藤恒俊と思ったが、
05.06.30に木鼻獅子をつぶさに観察、安五良常善「推定」☆☆☆の特徴を確認できた。

鐘楼の木鼻獅子作風は渋谷茂助(のちの後藤直光)に相違なし。
自信あり、太鼓判押します。

本堂
[山門から01]
[山門から02]
[本堂]
[懸魚]
本堂向拝
[左から]
[向拝竜]
[左から]
[裏]
本堂
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[頭貫01]
[頭貫02]
海雲寺・鐘楼

[渋谷茂助置友]

鐘楼

[全景]
鐘楼小脇板
[01]
[02]
[03]
[04]
鐘楼頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[後藤安五良常善]
二宮神社(船橋市三山五丁目) 05.08.17 参拝 [二宮神社](船橋市)

拝殿の彫工は後藤安五良常善「推定」☆☆☆と思う、自信あり。
したがって拝殿再建は天保前後頃(1830〜1844)と想われる。

拝殿前の石灯籠石刻は天保六年乙未年八月吉日

玉垣入り口門左右の木鼻獅子は常善に似ているが、
彫り方が雑で新しい、門人の作か真似て彫ったモノであろう。

[本殿]は由緒沿革・彫刻の構図から元禄頃(1688〜1704)の再建と想われる。
本殿胴羽目・脇障子は「二十四考」を題材としている。

[全体・右から]
[灯籠]
[拝殿]
[向拝]
[懸魚]
拝殿向拝竜
[中備]
[正面]
[拡大]
[中央親竜]
[左・子竜]
[右・竜]
[裏側]
拝殿木鼻
[左]
[左・角度下]
[右]
玉垣門
左側木鼻
[左]
[左・角度下]
[右]
右側木鼻
[左]
[右]
[後藤安五良常善]
観福寺・不動堂 文化十五年(1818) 04.08.01 [観福寺](香取市牧野)

04.08.06
ここの向拝竜何処かで観た記憶がと思って探しました。
金泉院(館山市国分) と全く同じ構図でした。

比較してみよう[金泉院の竜]後藤三治郎恒俊

  [不動堂の竜]後藤安五良常善

向拝木鼻獅子の作風は[後藤安五良常善] 「推定」☆☆☆

[不動堂]
[年代資料]
向拝
[竜]
[拡大]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[後藤安五良常善]

後藤富五郎藤原正信・・・(富蔵)五代後藤茂右衛門正綱の門人・武州大師河原住。(川崎大師門前住)
五代正綱の二番弟子。門人は九人と多く神奈川県に作が多くあると想われる。
しかし、作多くは発見されていない。

天保初期から六代茂右衛門を名跡した可能性があり、
何らかの理由で没年及び七代茂右衛門名跡者も解っていない。

大師稲荷神社(川崎区中瀬3-5-12)[地図]の彫刻を制作した孫の富八が居る。

富五郎の筆頭門人:岩治郎は富五郎を名跡、[後藤岩五郎]を名乗り浜松住。
五番目の門人:国三郎は[一元家]へ婿入り[一元国三]となったと想われる。
六番目の門人:[勇次郎]は深川の後藤弥太郎を名跡する。

[熊野神社](横浜市鶴見区市場東中町 9-21) [稲荷社](川崎市多摩区登戸)

稲荷社(川崎市多摩区登戸) [稲荷社](多摩区登戸) 05.01.29

嘉永三年(1850)の棟札
「彫工棟梁 上平間村 渡辺喜右エ門棟継 當所 小林佐吉」

※小林佐吉は[長念寺・山門]の棟札に登場する。

※戸越八幡神社拝殿棟札・安政二(1855)年
彫物師 渡辺平三郎棟續
江戸本所 長坂清治郎

※渡辺姓はこの地区の社寺に多く登場するが、下絵師か手配師の様でもある。

屋根吹き替え時の棟札・・・こちらが古い
「彫物 平間村 喜右エ門 子母○村 後藤富蔵 武藏籐源 某」

嘉永三年(1850)の棟札によれば、この時の彫工は[小林佐吉](和泉但馬門人)であろう。
渡辺喜右エ門棟継の系統は宮大工棟梁で彫刻はしていない。
向拝竜・木鼻竜・頭貫獅子は長坂系の作風で和泉但馬門人の小林佐吉でよいと想う。

国三が脇障子を彫刻したときの稲荷社は誰が担当したか不明である。
向拝の竜三態(子引き)は
棟札・構図・作風から、彫物は富蔵[後藤富五郎]「推定」☆☆が担当したと想われる。


社殿左脇障子裏の刻銘

武州大里郡
彫工國蔵
藤原正房

国蔵は十五歳で修行の身、主に親方の手伝い、最後に腕試しで左右脇障子を彫った。
この親方は後藤富五郎なのか、左氏後藤彫工世系図に
国三郎(同川崎住)があるが国三なのか。

明治十八年(1885)登戸に再び戻り三年掛けて、丸山教の旧大教殿を完成させ晩年の傑作といわれる。
「彫り國」
後藤國三(國蔵)は後に一元に婿入りしたと想われ、
[一元国三]として藤沢辺りで活躍する。

[鳥居]
[拝殿]
[懸魚]
[向拝]
竜三態(子引き)

[向拝竜]
[拡大01]
[拡大02]
向拝木鼻竜
[左]
[拡大]
[右]
[拡大]

[全体]
[左2枚]
[右2枚]
支輪
蟇股
[01]
[02]
[03]
[04]
支輪
蟇股
[05]
[06]
[07]
[08]
頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
頭貫
[07]
[08]
[09]
[10]
[11]
[12]
脇障子
國蔵作
[左]
[拡大]
[裏]
[刻銘]
[右]
[裏]
手挟
[左]
[右]

[コテ絵]
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熊野神社(神奈川県横浜市鶴見区市場東中町 9-21) [熊野神社ホームページ]

社殿は江戸時代より、川崎平間の宮大工・渡辺家(屋号:銚子塚)

天保年間(1830-1844)、現在の東海道線踏切付近に移転し、
さらに後、明治5(1872)年に、新橋・横浜間に日本初の鉄道が敷設されることになったため、現在地に遷座した。


この拝殿に在った向拝竜は上記にある稲荷社・向拝竜と作風がよく似ている。

[拝殿:向拝竜(子引き竜)] [本殿:虹梁上蟇股(日本武尊と熊襲(くまそ)征討)]

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