見立絵図の説明    [社寺名で検索]  [日本年号・江戸~明治時代]  indexへ
*
[二十四考図] [許由巣父図] [林和靖図] [商山四皓図]
[文人画] [神仙・列仙] [日蓮上人説話] [北斎漫画]
[八仙故事] [養老乃瀧伝説] 世界遺産 日光の社寺 文化遺産オンラインへ
彫刻題材の参考になります。 [インターネット青空文庫]
[地紋彫りのいろいろ] [地紋彫りの多い社寺] [日本・中国の文様辞典] [葛飾北斎 略年譜]
[武者絵] 日本年号
[南北朝~安土桃山時代]
[江戸~明治時代]
日本年号(十干・干支)
西暦対比表
[日本年号・江戸時代]
[干支・四方神]

神社・寺院の見どころ
*
[鳥居のいろいろ] [千鳥破風・唐破風] [社殿建築様式01] [社殿建築様式02]
[神社建築・各部名称] [神社屋根の形式] [寺院建築・各部名称] [寺院屋根の各部名称]
白井市文化財講演会より 07.06.30
三間社流造本殿の各部位・部材名称
*
[資料1]:平面図 [資料2]:立面図 [資料3]:立面図

地紋彫りのいろいろ
*
木彫稽古の初一歩は「地紋」というものを彫ることであった。・・・・・・
稽古にあてがわれる地紋というのは、五寸角の檜の板へ直線や曲線の伝習的な文様が彫ってあるもので、
極めて簡単なものから、かなり複雑なものに至るまで大体七、八種の基本型があり、
それの変化はなお無数にあるわけである。

・・・・・・彫刻美の諸要素はこの地紋の中にある。
地紋を稽古しているうちに我知らず彫刻の世界というものを身につけることになるのである。
彫刻の最大の要素は比例均衡である。比例均衡の初歩は同形の繰り返しに始まる。
地紋の繰り返しの美は即ちこれを教える。繰り返しには整頓がいる。
・・・「中略」・・・ 地紋において第一に用心するのはその文様の乱れである。

** 木彫地紋の意義 **  高村光太郎
*
[麻の葉] [八ツ手麻の葉] [網代組麻の葉] [六ツでの万字]
[万字繋]
(まんじつなぎ)
[繋ぎ蕨] [松川] [雷文01] [雷文02]
[蜀江]
日本・中国の文様辞典
*
[青海波] [立涌] [七宝] [分銅繋ぎ]
[網目] [亀甲] [縞01]  [縞02] [点]
[鱗] [石畳] [麻の葉] [菱01]  [菱02]
[紗綾形・卍崩し] [蜀江]
(しょっこう)
[工字繋ぎ] [籠目]
[三崩し] [檜垣・網代] [格子] [唐草]
[迦陵頻伽]
(かりょうびんが)
[屈輪文様01] [屈輪文様02]
屈輪=ぐり
[屈輪文様03] [屈輪文様04]

「東照宮陽明門柱」
この屈輪文様
[大工道具]
『日本文様集』誠文堂新光社
*
[業平格子] [紗綾形01] [紗綾形02]
(さやがた)
[紗綾形03] [菊菱文様]
[麻の葉01] [麻の葉02] [毘沙門亀甲] [若松文様] [亀甲文様] [亀甲花菱]
[青海波01] [青海波02] [観世水] [菱文様] [七宝繋ぎに花角]
[七宝繋ぎ] [亀甲に花角01] [亀甲に花角02] [檜垣文様]
[花菱文様]
実際の画像
*
[花菱紋七宝繋]
彫漆という漆芸
佐倉市上町山車人形臺高欄
[毘沙門亀甲]
漆仕上げ
佐倉市上町山車中高欄
[屈輪(ぐり)文様(柱)・毘沙門亀甲(脇障子枠)]
「勿来の関・源義家」
氷川神社(川越市)本殿
[蜀江紋]
川越市幸町・山車(台輪)
*
地紋彫りの多い社寺
*
氷川神社・本殿(川越市) 愛宕神社・本殿(野田市) 別雷神社・本殿(つくば市) 田無神社・本殿(西東京市)
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江戸時代後期の神仙伝・列仙伝   『絵で知る江戸時代 芙蓉書房出版』参照
*
[神仏01]
右弼金剛(うひつ)
左輔金剛(さほ)
持国天王・増長天王
廣目天王・毘沙門天王
[七福神]
大黒天・恵比寿
毘沙門天・弁財天
福禄寿・寿老人・布袋
[始祖01]
維摩居士(ゆいまこじ)
山越の弥陀・聖徳太子
出山の釈迦・誕生仏
[始祖02]
伏義氏(ふつぎし)
神農氏(しんのうし)
倉頡(そうけつ)
黄帝・孔子・老子・許由
[仏界01]
初祖達磨・不動明王
龍猛菩薩(りゅうみょう)
善導大師
天台大師(智者大師ともいう)
[仏界02]
琴高(きんこう)
費長房(ひちょうぼう)
太公望
上利剱(じょうりけん)
[仏界03]
張九哥(ちょうくか)
鐵拐仙人・蝦蟇仙人
西王母・通玄
迦陵頻・天人
[仙界]
六祖大師・傳教大師
役行者・寒山子(かんざんし)
拾得(じっとく)・巨霊人
その他
*
[雷] [牧童] [獅子・カイチ]
*00<カイチ>
[象・貘]
[虎・スウグ・豹]
*01<スウグ>
[麒麟と犀]

[麒麟の説明] [犀の説明]
[鳳凰] [龍]
[鯱・鯨] [蓑亀](みのがめ) [松・楓] [竹・篠・他]
[牡丹・芍薬] *02[和歌三神]
衣通姫(そとおりひめ)
柿本人麿・山部赤人

[白楽天・東坡]
筆道
[王義之・小野道風]
狩野派
*
[鐘離権・呂洞賓図]
狩野養信
[羅漢図]
狩野惟信
[虎渓三笑図]
狩野永俊
[西王母図]
狩野雪信
*00<カイチ>空想上の動物、その形は獅子に似ていて角が一本ある。一名、神羊(しんよう)という。
*01<スウグ>白虎のことをいう。その尾は身より長い。仁獣。
*02<和歌三神>和歌というのは、神代から始まったというが、住吉大明神を歌道の神として崇め奉り、
衣通姫(そとおりひめ)、人麿、赤人を歌の祖神とするのだという。

web ホームページ参照
*
[列仙伝] web・・・著者 劉向 [神仙伝] web・・・葛洪 西晋時代
[列伝] web
中国史の人物をアイウエオ順に羅列しています。
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日蓮上人説話
*
[小湊:生誕の地] [清澄山:立教開宗] [岩本:一切経の閲覧] [川奈:伊豆流罪]
[鎌倉:立正安国論奏上] [松葉ヶ谷:草庵焼き討ち] [片瀬:斬首刑難の地] [小松原:刃難の地]
[塚原:塚原問答] [一谷:本尊始顕] [池上:ご入滅の地]

文人画の例・・・[成田山一切経堂・火頭窓]
*
説明 図・作者 説明 図・作者
[蘭亭曲水]
王義之
[01]
池大雅、谷文晁、富岡鐵斎等
[武陵桃源]
陶淵明「桃花源記」
の内容が主題
[01]
田能村竹田、十時梅崖、
奥原晴湖等
[西園雅集]
大江定基、(米元章・文)
[01] [02]
谷文晁等、鈴木鵞湖
[飲中八仙図]
平野五岳、柳里恭
[01]
与謝蕪村、渡辺崋山
[虎渓三笑]
恵遠、
「東林訪問」陶淵明、陸修静
[01]
不明
[商山四皓図]
秦の始皇帝の頃、
国難を避けて、商山に隠れ
住んだという四人の高士
[01] [02]
不明
[前赤壁・後赤壁] [01] [02]
青木木米、山本梅逸等
[龍山勝会] [01]
池大雅、松村月渓
[琴棋書画]
文人達が憧れる
理想の生活
[01] [02]
日根對山(たいざん)等
[竹林七賢]
魏から晋の時代、
国難を避けて、竹林七賢に
隠棲し、清談を営んだ
七人の隠士をいう
[01] [02]
池大雅、高森碎巌、
宮田渓仙
鈴木鵞湖作 [西園雅集図]部分
鈴木鵞湖(1816~1870)文化十三年生まれ、明治三年没
は下総金堀村(現在の千葉県船橋市金堀町)に生まれ、幕末の江戸の地で活躍。
当時は江戸画壇の巨星谷文晁(1763~1840)宝暦十三年生の画系に連なる画人として地位を確立。
*
商山四皓図

[商山四皓図01]   [商山四皓図02]   [商山四皓図神扇]

商山四皓図01,02は長谷川等伯作

「神扇」の表には『商山四皓図(しょうざんしこうず)』が描かれています。
商山四皓とは秦の始皇帝時代、乱を避けて陝西省(せんせいしょう)の商山に入った
四人の仙人です。
*
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中国人物の例
*
説明 説明
[陶淵明] [01] [02] [李白] [01]
[林和靖] [01] [02] [王義之] [01]
[蘇東坡] [01] [諸葛孔明] [01]
[孔子] [01] [老子] [01] [02]
[荘子] [01] *[聖人] [01]
*聖人・先王は尭→舜→禹(ウ)→湯→文王→武王→周王→孔子→孟子
*
林和靖

[林和靖01]   [林和靖02]   [林和靖図]   [林和靖山車]・・・web page

[林和靖図]橋本雅邦(明治時代)

北宋の詩人、林和靖(りんなせい・968~1028)は、
山紫水明の地として知られる杭州の西湖の一角に庵を結び、
隠棲すること二十年、一歩もそこから出ず詩作に興じました。
庭には梅を植え、鶴を放ち、生涯独身を通したので「梅妻鶴子(ばいさいかくし)」といわれました。
彼の詩風は清新で、当時の詩壇に大きな影響を与えたといいます。
 この林和靖、その高潔な品性や悠々たる生き方が、
古来より理想的な文人の姿として、格好の絵の対象となっていました。
*
[林和靖]

飯高神社・本殿(匝瑳市)
前林善右衛門(資料)
[林和靖]

勝浦仲本町・屋台彫刻
嶋村俊正(刻銘)
[林和靖]

昌福寺・欄間(大栄町奈土)
香取郡彫工(推定)
[林和靖]

別雷神社・本殿(茨城県)
佐藤市之丞・根本賀兵衛
(茨城県資料)
許由巣父図

[許由図01]   [巣父図01]

許由・巣父とも中国の伝説的高士で,
許由は帝堯の国を譲るとの申し出に対し耳が汚れたと言って水で洗い,
巣父はそのため川の水が汚れたと言って牛に水を飲ませず帰ったという。
趣旨は権力を汚らわしいものとする点にあり,もって戒めとするというのが君子のタテマエである。

*
[脇障子左]:堯帝の帝

[脇障子右]:許由

[脇障子右裏]:巣父

八坂神社・本殿(取手市)
後藤桂林(刻銘)
[左]:許由巣父図

海上八幡宮・本殿(銚子市)
香取郡彫工(推定)
[左02]:許由巣父図

成田山新勝寺
一切経堂
[許由図]

別雷神社・本殿(茨城県)
佐藤市之丞・根本賀兵衛
(茨城県資料)
[左]:許由

[右]:巣父

昌福寺・境内社(山王社)
(大栄町奈土)
[左]:許由巣父図

宗像神社・本殿(印旛村瀬戸)
竹内山幸(推定)
[脇障子・左]:許由図

縣神社・本殿(大網白里町)
岸上八五郎佐基(刻銘)
養老乃瀧図

「養老の滝」の伝説

霊亀三年(西暦717年)元正天皇の御代に、
美濃国(現在の岐阜県南部)に薪(たきぎ)を取って生活している貧しい男がおりました。
一生懸命働いていても男の生活は貧しいものでしたが、
苦しい中でも酒好きな老父に酒だけは毎日買い与えておりました。

ある時、薪を背負って帰る途中、滝の水を瓢(ひさご)に酌むと、なんとそれは酒でした。
男は毎日この滝の水を酌んでは老父に与えるようになりました。
その話を伝え聞いた天皇は、
この地に行幸し男の孝養を賞し美濃守に任じ、年号を養老(717~724)と改めたと伝えられています。

[三嶋大社公式ホームページ/彫刻より]

[右]:養老乃瀧図

稲荷神社・本殿(市川市)
渋谷茂助置友(推定)

(同じ下絵)
[左]:養老乃瀧図

龍神社・本殿(船橋市)
渋谷茂吉後藤直光(推定)

(同じ下絵)
[左]:養老乃瀧図

米本神社・本殿(八千代市)
(彫工不明)

(同じ下絵)
[右]:養老乃瀧図

関戸神社・本殿(干潟町)
後藤一重(刻銘)
[胴羽目・左側]:養老乃瀧図

[胴羽目・右側]:天皇

白幡神社(八千代市)
浅子周慶[刻銘]
[右]:養老乃瀧図

愛宕鳥見神社(本埜村)
後藤安五良常善(推定)
田無神社・本殿
向拝蟇股

[姜詩01・向拝蟇股]
[姜詩02・部分拡大]
冊子の説明[姜詩01.02]は
「養老乃瀧図」
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八仙故事

八仙人孫悟空を味方にして竜王と闘かったりする民話が伝承されている。

台湾のおみやげ、「八仙酒上品」に付いていたパンフレットより

[船上の八仙人] [鍾離權](しょうりけん) [張果老](ちょうかろう)
[韓湘子](かんしょうし) [李鐵拐](りてっかい) [曹國舅](そうこくしゅう)
[何仙姑](かせんこ) [藍釆和](らんさいわ) [呂洞賓](ろどうひん)

北斎漫画・・・彫刻題材として利用されている。  『続 北斎漫画図録』『北斎絵事典』
*
[鯉に乗る・小英] [魚観音] [鯉に乗る琴高] [亀に乗る・廬敖(ろこう)]
[入雲龍公孫勝] [天宇受売命] [天狗と牛若丸] [国姓爺と猛虎]
[上利剱] [武内宿禰] [廬葉(ろよう)の達磨] [八幡太郎義家]
[桃太郎] [小英] [竹林七賢人] [龍に乗る・黄仁覧]
(おうじんらん)
[唯一神道] [仏師・角兵衛獅子] [唐子が書く] [高砂]
[獅子と彫刻師] [大黒天と唐子] [唐子の雪転がし] [空海(弘法大師)]
[在原業平] [役行者]
人物(多数)・神仙も含む
*
[01] [02] [03] [04]
[05] [06] [07]
その他
*
[倶利伽藍不動]
琴棋書画図・唐子遊図のある社寺
*
[成田山・仁王門] [布施弁天・八角鐘楼] [柴又帝釈天・幣殿] [愛宕神社・野田市]
[香取神社・柏市] [稲荷神社・八千代市]
*
波の伊八・葛飾北斎 略年譜  『続 北斎漫画図録』
*
宝暦元年(1751) 初代武志伊八郎信由(波の伊八)・現、鴨川市打墨に生まれる。
宝暦十年(1760) 九月二十三日、江戸本所割下水に生まれる。幼名時太郎、のち鉄蔵。
明和八年(1771) 武志伊八郎信由・妙法寺(杉並区堀ノ内)向拝竜彫刻
安永七年(1778) 十九歳にして勝川春章に師事し春朗と号す。
天明・寛政年間
(1781~1800)
歌川豊春、司馬江漢の影響を受けて、洋風画法、特に遠近法、陰影法を勉強し、
その他狩野派、土佐派、円山派等諸々の流派の研究を続ける。
享和元年(1801) 洋画画法による「くだんうしがふち」「たかはしのふじ」などの〈ひらがながき〉の
洋風版画を描く。
文化十一年(1814) 『北斎漫画』の刊行はじまる。
文政七年(1824) 初代武志伊八郎信由(波の伊八)死去七十三歳
天保二年(1831) 「冨嶽三十六景」の刊行はじまる。
天保五年(1834) 絵本中の最高傑作『冨嶽百景初編』刊行。二編は天保六年刊(三編は不明)。
嘉永二年(1849) 北斎没、享年九十歳。その作品は三萬枚をこえる。
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この他彫刻題材には、
[二十四考]・三国志・水滸伝・記紀・義経記・太平記・文人画・江戸武者絵などからも取り入れている。

文化遺産オンラインへ   [古版二十四考]   [庚申寺二十四考図絵馬]・・・web ホームページ参照
*

参考文献等
*
『至文堂・文人画の鑑賞基礎知識より』  『列仙伝・神仙伝 平凡社』  『北斎漫画』

『続 北斎漫画図録』  『北斎絵事典(人物編) 東京美術』  『絵で知る江戸時代 芙蓉書房出版』
*
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武者絵「江戸の英雄大辞典」・・・『渋谷区松濤美術館』

[佐原の山車彫刻]   [山車彫刻]
*
[素戔鳴尊の大蛇退治]
北尾重光画・絵馬
[坂田怪童丸]
歌川国芳画
[源義家・勿来の関]
歌川国芳画
[源義家と安倍貞任]
昇亭北寿画
「連歌図」
[新羅三郎義光]
歌川芳虎画
「箱根」
[牛若丸・武術覚図]
歌川国芳画
「鞍馬山」
[宇治川の先陣争い]
歌川国芳画
佐々木四郎高綱
梶原源太景季(かげすえ)
[頼朝公御狩之図]
歌川国芳画
「富士の巻狩り」
[仁田四郎忠常]
歌川国芳画
「猪を刺す」
[稲村ヶ崎奉剣]
歌川広重画
「新田義貞」
[櫻の詩]
尾形月耕画
「児島高徳」
[錦旗奪還ス図]
水野年方画
村上義光芋瀬
[櫻井の別れ]
月岡芳年画
「楠木正成・正行」(まさつら)
[一勇画譜]
歌川国芳画
「櫻井の別れ」
[川中島合戦図]
北尾重光画・絵馬
[長坂橋の張飛]
堤等月画・絵馬
[趙雲 幼主を救う]
三国志(趙雲図幟)
[義経一代記01]

[義経一代記02]
歌川広重画
[頼光一代記01]
歌川広重画
[頼光一代記02]
歌川広重画
[張天師01]
水滸伝豪傑双六
歌川国芳画
[行者武松10]
水滸伝豪傑双六
歌川国芳画

二十四考

支那(昔の中国)の元の時代に”郭居業”(かくきょぎょう)と言う人が二十四の孝行物語をまとめたもの。

古版には[田真・田広・田慶][山谷][張孝・張礼]がありました。
*
[大舜]
だいしゅん
[曽参]
そうさん
[文帝]
ぶんてい
[閔捐]
びんそん
[仲由]
ちゅうゆう
[董永]
とうえい
[剡子]
たんし
[江革]
こうかく
[陸績]
りくせき
10[唐夫人]
からふじん
11[呉猛]
ごもう
12[王祥]
おうしょう
13[郭巨]
かくきょ
14[楊香]
ようこう
15[朱寿昌]
しゅじゅしょう
16[癒黔婁]
ゆぎんろう
17[老来子]
ろうらいし
18[蔡順]
さいじゅん
19[黄香]
おうこう
20[姜詩]
ぎょうし
21[王褒]
おうほう
22[丁蘭]
ていらん
23[孟宗]
もうそう
24[廷堅]
ていけん
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庚申寺二十四考図絵馬より
*
田真・田広・田慶
(でんしん・でんこう・でんけい)
田真・田広・田慶

この三人は兄弟であった。
親に死に別れてから、親の財宝を三つに分けたが、
庭先に紫荊樹といって、枝葉が青々と茂り、
花も咲き乱れている木が一本あった。
「これも三つに分けよう」と夜どおし三人で相談した。
そして、夜も明けたので、
木を切ろうとして木の所へ行ってみたところが、
昨日まで茂っていた木は、にわかに枯れていた。
田真がこれを見て「草木にも心があって、
木って切って分けようと言ったのを聞いて、枯れたのだ。
まったく人として、この心を思い知らないでよいのだろうか」
と分けることをやめてそのままにしておいたので、
ふたたび、もとのように茂ったよいうことであった。
山谷
(さんこく)
山谷

山谷は、宋の時代の詩人であった。
今になっても、詩人の祖師といわれる人である。
たいそう使用人も多く、
妻もいたが自分で母の大小便の便器を取り扱って、
汚れている時は、自分の手でこれを洗って母に与え、
毎日よく仕えて、怠ることがなかった。
そのことから、一事をもって万事が知られるように、
そのほかの孝行も推察され、
この人が孝養を尽くし節義を守ったことが、
世間に明らかになり名高い人であった。


(黄庭堅と似た話)
張孝・張礼
(ちょうこう・ちょうれい)
張孝・張礼

張孝と張礼は兄弟であった。
世の中が飢饉の時に、八十歳あまりの母を養っていた。
木の実を拾いに行ったところが、
一人の飢え疲れた盗人が来て、
張礼を殺して食ってしまおうと言った。
張礼は「私は年老いた母をもっています。
今日はまだ食事をさしあげませんでしたので、
少しの時間をください。
母に食物をさしあげて、すぐに戻ってまいりましょう。
もしこの約束を破ったならば、
私の家に来て一族の者まで殺してください」と言って帰った。
母に食事をさせて約束のとおり、その者の所へ行った。
兄の張孝がこれを聞いて、あとから行って盗人に向かって
「私は張礼より太っているので食べるには格好でしょう。
私を殺して張礼を助けてください」と言った。
また、
張礼は「私が初めからの約束です」と言って死を争った。
そこで、人の道にそむく盗人も兄弟の孝養を尽くし
節義を守るのに心を動かされてともに命を助けた。
そのうえに、
このような兄弟は昔から今までめったにいないというので、
米二石と塩一駄とを与えた。
兄弟はこれを持って帰り、
いよいよ孝行の道にはげんだということであった。
[二十四考目次]

説明は[静岡浅間神社二十四考物語]、絵は『続 北斎漫画図録』より
*
一 大舜
大舜
二 曽参または曽子
曽参
「孝、天を感動せしむ」

 むかしの盧朝(ろちょう)の皇帝姚舜(とうしゅん)は、
もともと盲目の父の子でありました。
生母は早死にしましたので、
幼い時から父の後妻によって、
あらゆる虐待を受けました。
後妻の生んだ弟は、これまた傲慢で、
兄である舜を尊敬しようとはしませんでした。
それでも舜は何一つ不満らしいことは言いません。
これは、まったく父母に孝敬、
兄弟に友愛の模範でありました。
さて、歴山(れきざん)というところに家伝来の
田畑がありましたので、舜は畑仕事に精を出しました。
そうすると、あらゆる動物までもがやって来て
彼の仕事を助けたということです。

これは、彼の孝心のまごころが鳥やけだものにまで
感動を与えたからにほかなりません。
舜は成長してから、
その親孝行の実績が国中の人に認められ、
この人ならばすべてを任せてもよいということになり、
ついに堯帝(ぎょうてい)の禅譲(ぜんじょう)
(王位をゆずること)を受けて、
天子の位にのぼりました。

[二十四考目次]
「指を噛んで心を痛める」

 周朝の頃、
一人の極めて道徳好きな者がおりました。
その名を曽参(そうさん)(曽子(そうし))といい、
孔子の門下生でありました。
彼は幼い時に父を失い、
母子は互いに寄り添うようにして暮していました。
曽子は母親を養い、
その心根はまことに孝順な者でした。
毎日山にのぼり、
柴刈りをして生計を立てていました。
ある時に曽子が柴刈りをしていましたが、
家の方に俄(にわか)にお客がやって来たことがありました。
一人で留守居をしていた母親は、
どうしておもてなしをしていいかわからず、
ただおろおろするばかりでした。
いろいろ考えた末に、
母親は自分の指を噛みました。
その時に、
山の中にいた曽子の心がしきりに痛むのでありました。
これは家に何事が起っているに違いないと
感じた曽子は、
急いで柴刈りをやめて家にとんで帰りました。
そして母親の前にひざまづいた時に、
母親が指を咬んだことを知らされ、
それによって、
わが胸の痛んだことに思い当ったのでありました。
三 文帝
漢文帝
四 閔捐または閔子騫
孟宗
「親の湯薬を嘗(な)める」

 西漢の文帝(ぶんてい)は、
その名を恒といいました。
これは漢の高祖である劉邦の
第三子にあたる人です。
文帝は母君に対して大層孝養をつくされました。
その一方で、国事がいかに忙しくとも、
日夜その政治に意を用い、海内をよく治め、
大いに実績をあげられました。
その間、母君の病気が三年間も続きましたが、
文帝は帝王の身でありながら、
日夜その枕頭にはべり、衣服の帯を解くこともなく、
また目ばたきもしないほどであったといいます。
母君の薬湯を煎じる時は、人まかせにせず、
必ず先ず自分でその加減を見、
次に母君に進めるといった具合でありました。
そのため、帝王としての“仁”と“孝”との名声が、
いやが上にも天下に知れわたったのでありました。


[二十四考目次]
「衣を単(ひとえ)にして母に順(したが)う」

 周朝の時、閔捐(びんそん)またの名をびんしけんという人がおりました。
この人は孔子の門下生で、早く生母を失いました。
父親は後妻を迎え、
その後妻との間に二人の子供ができ、
これを大そう可愛がりました。
ところで、
この養母がまことに自分本意のわがままな人で、
しけんを非常に嫌い、
冬の寒い時にも、
しけんには綿入れなど着せませんでした。
ちっとも暖かくない蘆の花の代用綿を
入れた着物を着せ、
それさえも穴があいたぼろぼろのものでした。
ある時、父親を車に乗せて外出しましたが、
着物が一枚きりなので寒くてたまりません。
そのため車の引き手の綱を持つ手にも
力が入らない始末です。
それを父親が見まして、一目瞭然、
後妻のしけんに対する意地の悪い仕打ちがわかりました。
そこで帰宅してから、
後妻を追い出してしまおうとしました。
この時に、
しけんはこう言って父親に哀願したということです。
お母さんがおればこそ、
私一人が綿入れを着ないだけで済みます。
これが、お母さんがいなくなれば、
三人の子供らがみな綿入を着ることができず、
結局は寒い思いをするでしょう。
これを聞いた後妻がはじめて自分の非をさとり、
しけんの孝心に非常に感動したということです。
五 仲由または子路
仲由
六 董永
董永
「米を負うて親を養う」

 周朝の頃、
子路(しろ)(仲由(ちゅうゆう)とも)という者がおりました。
彼の家は貧窮でした。
そこで子路は、いつも少しばかりの、
それも粗末な野菜の弁当を持って遠くまで出かけて
仕事をし、賃銀の米を買って背負い、
家に帰って両親を養うのが常でありました。
長じて、
楚王が子路の学識と人品のすぐれていることに敬服し、
官吏に登用しました。
今では馬車に米を一杯積み込むほどになり、
何一つ不自由のないほどになりました。
しかし子路は、いつもなげいてこう言いました。
粗末な野菜の弁当を持って親を養うために働き、
百里の遠い道を米を背負って
親孝行をすることはできなくなったと。

[二十四考目次]
「からだを売って父を葬る」

 漢朝の時、一人の孝子がありました。
名を董永(とうえい)といいます。
幼い時に母親を失いましたので、父親を養うため、
人の使い走りや耕作を手伝ったりして
生計を立てていました。
その父親の死後、葬儀代がないものですから、
自分の身を売ってそれを賄いました。
この親孝行の評判が、
天上の仙女を感動させました。
仙女は地上に降りて来て、
董永と結婚して妻となりました。
そしてそれからは他家の手伝いをしたり、
また主人の董永の身代金(みのしろきん)
を償(つぐな)うために、
一ヶ月の間に絹織物を三百匹(六百反)も織り上げて、
董永の身柄を引き取ったということです。
七 剡子
タン子
八 江革
江革
「鹿の乳を親に奉る」

 周朝の時代にたんという者がおりました。
後の人はたんしと呼びました。
天性非常に孝順でありました。
両親は老齢で眼をわずらい、それを治すために
卓効のあるといわれる鹿の乳を欲しがっていました。
そこでたんしは、
鹿の皮をかぶって鹿の群の中にまぎれ込み、
鹿の乳を取って、
それを両親にさしあげておりました。
ところがある時に、険しい山中に入っていったところ、
猟師が鹿と誤ってたんしを弓で射ようとしましたので、
たんしがあわてて事情を説明しました。
それを聞いて、その猟師がはじめてたんしが
一人の至孝の子であることを了解し、
深く感じ入ったということであります。


[二十四考目次]
「傭(やと)われに行き母に供える」

 後漢の頃、江革(こうかく)という
孝子がありました。
幼い時に父を失い、
母子二人で互いに頼り合って暮していました。
時に、天下は麻のごとくに乱れ、
盗賊が横行するといった有様でした。
江革は恐れおののき、
母親もまた驚き惑うばかりでした。
そこで物騒な状態から避難するため、
江革は母親を背負い、わが家を後にしました。
ところが運悪く途中で盗賊に
出合ってしまったのです。
江革は、
自分がいなければ老母を養う者がいませんので、
そのことを切々と訴えて
盗賊のゆるしを乞いました。
この訴えを聞いて、
さすがの盗賊もその親孝行に感じ入り、
みずからも愧(は)じて、二人を放しました。
そこで江革母子はやっと逃れることができて、
それからさらにカヒ地方に
行くことができたということです。
天は巧みに人の世にこのようなしくみを
与えるものです。
江革は自分ではろくな衣服も着ませんでしたが、
母親には少しも不自由をさせなかった
ということです。
こんなことは、
世間にはそうざらにあることではありません。
九 陸績
陸績
十 唐夫人
唐夫人
橘(みかん)を懐(ふところ)にして親に遺(おく)る

 陸績(りくせき)は後漢の人で、
別名を公紀(こうき)といいます。
6才の時に、九江地方の袁衡(えんこう)という人の
所を訪問したことがありました。
袁衡は沢山の蜜柑を出してご馳走してくれました。
その蜜柑を二個取って、
陸績はこっそりと袖の中にかくしました。
そして袁衡の家をおいとまするために
ご挨拶をしていた時に、折り悪しく、
かくした蜜柑が袖からこぼれ落ちて
土の上にころがりました。
それを見とがめた袁衡がいいました。
陸郎ちゃん、なぜこんなことをしたのですか。
そこで陸績が答えました。
「これをお母さんにあげたら、どんなに喜ぶことかと、
蜜柑を二個だけ持ち帰って、
お母さんにさし上げようと思ったものですから。」
と答えたということです。
このお話は幼い子供の例ですけれども、
まあ何といういじらしい親孝行の心ではありませんか。
こういうことは、むかしも今も大そう珍らしいことです。
「姑(しゅうと)に乳を飲ませて怠らず」

 唐朝の時に“崔南山のお母さん”(別名唐夫人)
といわれた人がありました。
彼女は毎朝早く起き出し、御殿に走って行って、
自分の乳房をとり出して姑の長孫太夫人
(唐の太宗の后(きさき))に飲ませるのでありました。
というのは、この長孫太夫人というお方が、
乳を大そう好んだからでございます。
さて、その長孫太夫人は、その乳のおかげで、
ご飯はたべなくとも、
数年にして大変健康なからだになることが
できました。
のちに、その死に臨んで一門の親戚を集めて、
こういいました。
「私は嫁のおかげを受けました。
子々孫々に至るまで、
このような私につくしてくれたような嫁が来ると
よいと思います。」と。

[二十四考目次]
十一 呉猛
呉孟
十二 王祥
王祥
「蚊の血に飽くのを恣(ほしいまま)にさせる」

 晋朝の頃、一人の孝行者の子供がありました。
その名を呉猛(ごもう)といい、年はわずか八才でした。
家が大そう貧しかったので、
部屋にかける蚊帳もありません。
夏になると呉猛は毎晩のように裸で寝て、
自分のところに蚊が寄って来るのにまかせました。
なぜなら、自分が蚊を追い払えば、
蚊は血を吸うことができないので、
必らず父母のからだを刺すであろうと思ったからです。
自分さえ蚊に血を吸わせれば、
蚊は父母のもとへは飛んで行かないで
あろうと考えてのことでした。


[二十四考目次]
「氷に臥(ふ)して鯉を求める」

晋朝の頃、王祥(おうしょう)は生母が早くなくなり、
父親は再婚をしました。
その後妻の朱氏(しゅし)が王祥の継母となった訳ですが、
これが大変わがままな人でした。
しかしこの王祥は昔ながらの親孝行の気質の人で、
この継母にもよく盡しました。
ある時に、それも厳寒の頃に、
継母はいきのよい魚をたべたいと言い出しました。
そこで王祥は、氷を解かすため、やむなく衣服を脱ぎ、
裸になって氷の上に坐り込み、
何とかして魚を獲らせて下さいと天に折りました。
すると、
突然目の前の氷が一ヶ所ぽっかりと割れて、
その氷の穴から二匹の鯉が
氷の上に踊(おど)り上りました。
王祥は大そう喜んで天に感謝し、それを家に持ち帰り、
継母に煮て食べさせたということです。
十三 郭巨
郭巨
十四 楊香
楊香
「地を控(ほ)って金を出す」

 漢朝の郭巨(かくきょ)は、家が大そう貧乏でした。
一家は老母と夫婦の三人で、仲よく暮していましたが、
後に一人の子供が生れました。
そのため、ますます生活が苦しくなりました。
母親は以前から病気がちでしたが、
丁度その頃に病状が悪化しました。
お金がないので、
仲々医者に診てもらうことも出来ません。
そこで生れた子供を他人に売って、
それでお金を手に入れることにしました。
なぜかといいますと、
夫婦で商(あきな)いをしても大したこともなく、したがって、
いくら考えてもちっともいい方法が
見つからなかったからです。
思案の揚句に、
裏庭に行って母親の病気に利く薬草でもないかと思い、
草の根を掘っていました。
これはまさに至孝(孝行の極致)の姿でした。
これには天も感動せずにはいられませんでした。
その孝心を全うさせてやりたい
ということだったのでしょう。
その地中から、
天から授けられた黄金が出て来たということです。
「虎をつかんで親を救う」

 晋香の人に楊香(ようこう)という人がおりました。
時に年令は十四才でした。
ある時、父親とともに田圃を耕しに行きました。
すると突然、山の中から一頭の虎が出て来て
父親に喰いつこうとしました。
楊香はわが身の危険をもかえりみず、急いで走り寄り、
両手で孝虎のくびにとりつきました。
老虎はくびにとりつかれたので、
父親に喰いつこうとしていた口を放しました。
老虎も楊香の捨て身には
何かを感じたものでしょうか。
父親は老虎に喰われることなく、
助かったということです。





[二十四考目次]
十五 朱寿昌
朱寿昌
十六 癒黔婁
癒黔婁
「官職を棄てて母を尋ねる」

 宋朝の頃、楊州(ようしゅう)に
朱寿昌(しゅじゅしょう)という者がおりました。
七才の時に生母と行き別れして、五十年が経過しました。
神宗皇帝の時代に、彼は官吏となりましたが、
その間にあっても、
心の中では母親に再会できる日を念じでおりました。
そのため、ついに官吏を退職し、
わざわざ故郷の楊州にまで出かけて行きました。
その旅路は大そう困難で、
とうとう彼は道ばたに倒れてしまったのです。
或る旅人がそれを見て介抱し、その訳を尋ねました
問われるままに、朱寿昌は理由を語りました。
すると突然、彼を取り囲んでいた群衆の中から一人の
七十才ばかりの白髪の老婆が走り出ました。
その人が、
彼が長年の間たずね求めていた母親であったのです。
母子は相擁して泣きました。
人々もまた感動して泣いたということです。

[二十四考目次]
「糞をなめて憂(うれ)える」

 南斉の時代に、
癒黔婁(ゆぎんろう)という者がありました。
彼は出世して孱陵の県知事になりましたが、
赴任して十日も経たないうちに、
父親の病気を理由に
官を辞して家に帰ってしまいました。
帰宅した彼は医師に尋ねました。
病気の状態はどうなのか、またどうすれば治るのかと。
そこで医師が言うのには、
病状がよいかわるいかを知るには、
病人の便をなめてみるのがよい。
その味が苦いかどうかによって
病人の様態がよくわかるし、
それによって療治することもできるでしょうと。
黔婁(ぎんろう)はそれを聞いて、
それからは父親の便を検査するのを第一番のこととしました。
そしてその味が思わしくない時には、大変心配しました。
さらに毎晩、北斗星に向かって頭を下げ、
父親の平癒を祈り続けるのでありました。
そしてさらに、
父親の身代りになって死ぬことを望んだということです。
十七 老来子
老来子
十八 蔡順
蔡順
「戯れに美しい着物を着て親を喜ばす」

 周朝(しゅうちょう)の頃、
老莱子(ろうらいし)という人がおりました。
小さい時から両親を養い、大そう親孝行者でありました。
しかし老莱子自身、齢すでに七十才にもなっておりました。
ただし両親の前では、子供である自分が
老人になっているという様子は見せませんでした。
ある時美しい着物を着て子供のなりをし、
老父母に甘えてたわむれるふりをしました。
そしていつも使っている水桶につまづいて倒し、
水をこぼしてしまいました。
そこで子供のなりをした老莱子が大声をあげて
泣きまねをしましたので、
老父母がそれを見て思わず吹き出してしまい、
笑いがとまらなかったということです。


[二十四考目次]
「桑の実を摘んで親に供(きょう)する」

 漢朝の頃、蔡順(さいじゅん)という者が
おりました。
父親が早くなくなり、
母親にこの上もない孝養を盡しました。
当時、王莽(おうもう)が王位を奪い、
そのため天下が大いに乱れ、
盗賊が四方に起るといった世相でありました。
ある日、
蔡順は郊外に桑の実を採りに出かけました。
そしてその桑の実を二つの篭に
、紅い実と黒い実とを入れ分けていました。
そこへ不意に盗賊があらわれました。
賊が尋ねました。
どうして桑の実を二つの篭に入れ
分けているのかと。そこで蔡順が答えました。
熟して黒い方の実は母親に差し上げる分で、
紅くて未熟な実は私の食べる分です。
そのために二つの篭に入れ分けているのですと。
それを聞いた賊が感心して、物を取るどころか、
かえって三斗の米と牛の腿肉(ももにく)を
一つ蔡順親子のために呉れて立ち去ったということです。
十九 黄香
黄香
二十 姜詩
姜詩
「枕をあおぎ蒲団を温める」

 漢朝(かんちょう)の頃、江夏(こうか)の人で
黄香(おうこう)という者がおりました。
時に齢(よわい)わずかに九才でした。
母親の死後、日夜、亡母を恋い慕っていました。
近所の人々は、皆、
黄香こそ孝子だとほめたたえました。
さて黄香は父親にも大そう孝養にはげみ、
いつも夏の日には、父親が眠っていると、
その枕元を扇であおいで涼しくし、
冬の日には、先ず父親の蒲団に自分のからだを
入れて暖めておいたといいます。
そのため、
孝子としての名声がますますあがったということです。

[二十四考目次]
「泉湧き鯉躍る」

 漢朝の頃、姜詩(きょうし)という人があって、
妻子ともよく和合し、
極めて親孝行の心を持っていました。
その母親は、
江水の清水と鮮魚のなますを好んでおりました。
そこで夫婦は、
二人で遥かに遠い江水まで出向いて清水を汲み、
また沢山の魚を取り、
それでなますをつくって母親にさしあげ、
また隣家の老婦人にもさしあげておりました。
後に、ある時、
突然屋敷のそばに江水と同様の泉水が湧き出ました。
その上、
その泉水の中に鯉が踊り跳(はね)るといった有様でした。
それからというものは、夫婦は家のすぐそばで清水を汲み、
魚を獲って母親にさし上げ、
孝養を盡すことができたということです。
二十一 王褒
王褒
二十二 丁蘭
丁蘭
「雷を聞いて墓に泣く」

 三国時代、魏の国に一人の孝子がありました。
その名をおうほうといい、俗名を偉元といいます。
母親に仕えて、まことに孝行者でありました。
その母親が、生前には臆病な人で、
そのうち最もこわがったのは
空に鳴りわたる雷鳴の轟きでありました。
おうほうがたまたま雷鳴を聞いた時は、
急いで帰宅して、
母親のそばにいて安心させるのが常でありました。

その母親の死後、ある日、大風・大雨・雷鳴の時、
おうほうはその風雨をものともせず、
母親のお墓にかけつけ、生前と同様に、
私がここにおりますよといって、
亡母の恐怖を取り去ることを
願ったということであります。


[二十四考目次]
「木像を刻んで親につかえる」

 漢朝の時代に丁蘭(ていらん)という
者がおりました。
彼が少年の時、父母ともに此の世を去りました。
そこで彼は父母の死が余りにも早かったため、
子として充分に孝養をつくすことが
できませんでしたので、
いつもそればかりが気にかかっておりました。
そこで木彫の父母の像をつくり、
お堂を建ててそれを安置し、朝夕拝んでいました。
 さて妻帯しましたが、この妻が心ない者で、
主人の大切にしているこの木像の指先を
故意に針で刺してしまったのです。
朝、いつもの通り丁蘭が木像を拝みに
行きましたところ、
木像の指先から血が流れているではありませんか。
丁蘭は嘆き悲しみ、大声をあげて泣きました。
そしてその理由を妻に問いただした結果、
妻が木像の指先を針で刺したことが明らかになりました。
事ここに及んで、さすがの丁蘭も、
妻を離別してしまったということです。
二十三 孟宗
孟宗
二十四 廷堅
庭堅
「竹に哭(な)き筍を生(しょう)ず」

 三国時代に、名は孟宗(もうそう)、
俗名は恭武(きょうぶ)という者がおりました。
幼い時に父に死に別れ、年老いた、
それも病気がちの母親と暮していました。
そしてその病気は、
もはや先が見えているといった状態でありました。
その時は丁度真冬の時候でしたが、
母親は筍のなますがたべたくてたまりませんでした。
筍は春先に生えるもので、
真冬では探しても一寸無理です。
それでも親孝行の孟宗は
雪まじりの風の吹くおぼろ月夜に、
一人で竹林の中に筍を探しに入って行きました。
今どき筍などのあろう筈がないことは分り切っています。
しかし母親に筍を食べさせてあげたい。
そこで孟宗は竹林の竹に抱きつき、大声をあげて、
筍がほしいといって泣きました。
これには、天地もさすがにこの一介の孝子の
孝心に感動したものと見えます。
なぜなら、孟宗の目の前で地面がぱっくりと割れ、
そこに真新らしい筍がいくつも生えて来たのですから。
母親はこの筍を煮てつくった
羹(あつもの=なます)をたべ、
病気も奇蹟的に快方に向ったということです。
「親の溺器(じょうき)を滌(すす)ぐ」

 宋朝の時代に、一人の孝子がありました。
その姓名を黄庭堅(おうていけん)といいます。
彼はまた文学者でもありました。
宋の哲宋・元宋に仕えていた頃に
国史(神宗実録)を完成したほどでした。
天性まことに親孝行の人であって、
自分が高官に出世してからでも
母親への孝養を怠りませんでした。
ことに、朝夕母親の用いる便器の仕末は
すべて自分でやるといった具合で、
かりそめにもそれを使用人らに
まかせるということがありませんでした。
そのような人柄でしたから、
はたせるかな大名(知事)となり、
のちまでも天下にその誉れの名をあげたということです。





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