長坂系  [社寺名で検索]  [二十四孝・その他見立て絵図]  [小松家ファイルへ]  

[長坂家系譜へ]  [日本年号・江戸時代]


長坂家
*
[初代長坂猪之助友雅] [二代長坂猪之助友恒](初代友雅門人)
[後藤猶之助藤原正義] 篠宮家婿入り
[三代長坂猪之助友知・初代後藤藤太郎]
(初代友雅門人)
[四代長坂猪之助友安]
(三代正常・初代友雅・二代友恒門人)
初代長坂猪之助友雅門人
*
[小松吉五郎](初代友雅門人) [長坂政右衛門恒教](初代友雅門人)
初代後藤藤太郎門人
*
[二代後藤藤太郎・藤原一重]「後藤一重」
(初代藤太郎門人)
[後藤半十郎](初代藤太郎門人)
[三代後藤藤太郎]友孝(初代藤太郎兼松・男)
[後藤重四郎](二代藤太郎門人)
その他長坂系門人
*
[後藤清次郎](長坂清治郎) [松田乙次郎・藤原一元](江戸長谷川町住)「推定」
[三嶋神社]林 七右衛門(當所)・千葉市天戸台「推定」 [渋谷茂八置友]=後藤直光

長坂系彫工作事社寺

長坂系彫工が施工したと想われる社寺「推定」・・・向拝竜・向拝木鼻(下絵)の構図は竜・彫工不明。

二代猪之助友恒は行年が長く一番有力だが、 幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考までにして戴きたい。
*
八幡神社(袖ヶ浦市上泉)「推定」
慶応三年(1867)造営
瀧蔵神社(中央区千葉寺町)「推定」
嘉永六年(1853) 二代友恒か?
覚林寺・清正公堂
(港区白金台一)「推定」
野田神社・本殿(袖ヶ浦市野田)「推定」
麻賀多神社・本殿(佐倉市鏑木)「推定」
天保十四年(1843)再建
三嶋神社(千葉市天戸台)「推定」
文久○年(1861-63)石刻 林七右衛門(刻銘)
八坂神社・本殿(我孫子市都部)「推定」
明治十一年(1878)後藤清(刻銘)
滝不動「旧滝前不動尊」(沼南町)「推定」
文化十三年(1816)建立
竜王堂(船橋市本町)「推定」
嘉永三年(1850)松田乙次郎(県資料)
上八坂神社(小見川町阿玉川)「推定」
昭和の作
大宮神社(船橋市飯山満)「推定」 渡海神社・拝殿(銚子市高神西町)「推定」
二代友恒か?
八幡大神(香取郡多古町島)「推定」
三代長坂友知?
諏訪神社(南品川)「推定」
包吉「豊吉」灯籠石刻銘(猪之助・門人)
諏訪神社(都町)「推定」
明治四十一年(1908)再建・長坂家後継作か?
[善立寺・本堂向拝](川崎市多摩区)「推定」
七百余所神社・本殿(八千代市米本)「推定」
明治十六年(1883)再建、四代猪之助友安か?
[田無神社・拝殿](西東京市)「推定」
明治八年(1875)大工:高橋金左衛門等
隅田川神社(墨田区堤通)「推定」
安政五年(1858)再建(資料)
愛宕神社(白井市木)「推定」
江戸最末期
愛宕神社・木鼻(佐倉城内に奉斎)「推定」
明治十二年に現田町に鎮座
薬王寺
(港区三田四丁目)「推定」
長坂系と想われる彫工「推定」・長坂系の下絵と作風
*
竜王堂(船橋市本町)
嘉永三年(1850)
松田乙次郎・藤原一元(江戸長谷川町住)
三嶋神社(千葉市天戸台)
文久○年(1861-63)狛犬石刻
林 七右衛門(當所)
香取神社(柏市沼南町高柳)
慶応三年(1867)
上総久留里・陽之助
八坂神社・本殿(我孫子市都部)
明治十一年(1878)
後藤清(當邑)
御嶽神社(大田区北嶺町)
天保二年(1831)
宮大工・彫工 藤原篤意
野田神社・本殿(袖ヶ浦市野田)「推定」
明治三十二年(1899)「署名」
姉崎斎堤義・・・『千葉県調査資料』

長坂猪之助友雅・・・長坂家元祖(篠沼家婿入り) 本所報恩寺橋住。

三代後藤茂右衛門正常の門人、名人ナリ。
長坂猪之助の門人(直弟子)は長坂を名乗るが、その門人(孫弟子)は後藤を名乗ることが多い。
文化・文政・天保の頃活躍。

長坂猪之助友雅には判っているだけで15人からの門人がいて、後藤流隆盛の基盤を創った。
相当数の仕事をしていなければ弟子を養っていけない、
したがってまだ作品は数多くあるハズだが、門人を伴っての作も多い。
東京下町に作が多いと関東大震災や戦災で焼失している。

初代猪之助の門人に幕府作事大棟梁・十代和泉但馬が居る。
(九代和泉九兵衛良安の長男)
九代和泉良安が長坂家(後藤流)で修行することを命じたのであるから、
この頃より和泉家と東都後藤家の繋がりを見ることが出来る。

後藤東都本流五代茂右衛門後藤正綱の時、後藤本流が新規に幕府御用勤となっている。
(二代小沢五右衛門も業「なりわい」後藤正綱受御用勤、嶋村家は六代俊規から御用勤を外れる)

長坂猪之助友雅の直弟子は長坂を名乗るが、孫弟子は後藤を名乗る。
(職名の前後に「友」の字が付く場合が多い。例:友恒・友知・友安)

門人・孫弟子も向拝の木鼻に「珠取り竜」を用いる傾向がある。

幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、彫工個別の判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考とまでにして戴きたい。

刻銘・資料等あり
*
[薬王寺・本堂欄間](東金市) [逢善寺・本堂](茨城県稲敷市小野)
天保十三年(1842)
[本国寺・庫裡玄関](大網白里町大網)
玄関再建:元文五年(1740)・・・『千葉県の近世社寺建築』
[龍鑑寺・本堂]内外陣境欄間三枚(茂原市七渡)
寛政十年(1798)
[龍鑑寺・本堂] O氏提供画像・墨書あり
王子稲荷神社(北区岸町1)
文政五年(1822)再建
山門・手水舎・拝殿
刻銘・墨書き等が発見されない社寺は「推定」とした。

再建年代が特定されていない社寺も在るが、
相対的に長坂猪之助友雅の構図・作風に近いものを載せた。

天保年間以前の門人全ての作風は拝見理解していないので、この頃門人を伴った作もあり得る。

川口神社・本殿(銚子市川口町)「推定」 宗像神社(印旛村岩戸)「推定」
文化三年(1806)創建
春日神社(佐倉市下志津)「推定」
文政六年(1823)
金村別雷神社・覆屋(つくば市)「推定」
天保二年(1831)
千葉寺・仁王門・鐘楼・本堂(中央区千葉寺町)「推定」
文政十一年(1828)
善勝寺・鐘楼(緑区土気町)「推定」
文政十一年(1828)・・・『千葉県の近世社寺建築』
成田山新勝寺・光輪閣・山門(成田市)「推定」
文化十四年(1817)
南城山・常福寺仁王門(成田市下総町名木)「推定」
頭貫は全て門人の作であろう。
八幡神社(市原市菊間)「推定」 善福寺(九十九里町粟生) 「推定」
大聖寺「大相模不動尊」(越谷市相模町)「推定」
文化元年(1804)
研究の余地有り
*
[布施弁天・鐘楼] (柏市布施)「推定」
文化十五年(1818)
[麻賀多神社・拝殿向拝](佐倉市鏑木町)「推定」
天保十四年(1843)再建
備考

昭和40年に焼失した成田山新勝寺前額堂(文政四年(1821)上棟)の彫刻は長坂猪之助友雅。

現額堂は文久元年(1861)、照順上人代に建立された。
周りの彫物、彫工は[後藤勇次郎経廣]

[成田山新勝寺]
*
逢善寺・本堂(茨城県稲敷市小野)県指定 05.04.30

逢善寺は、淳和天皇の828年開基(平安時代天長五年)と伝え、当地有数の天台宗の古刹。
 江戸時代には、徳川家康から朱印地三百石を与えられ、関東八檀林のひとつとして、
さらには勅願寺として天皇家の崇拝を受けた。

 天文、文政、天保年間に焼失、再建という被災の歴史を繰り返した。
 昭和56年から7年かけて修復工事がなされ、現在の姿となっている。

「棟札」 天保十三年(1842)

彫工棟梁 長坂猪之助

本堂母屋の力神は「風神・雷神」のようだ。
頭貫獅子頭は二十四頭、弟子の作もあるようです。
本堂右側頭貫獅子の構図[04] [05] [06]・作風がいろいろある。

[千葉寺・山門・虹梁上の竜][逢善寺・本堂右側の竜]


日本画家・松本楓湖

『約2.8メートル四方のケヤキの板に、ほぼ等身大の天女が雄渾に描かれています。
この絵は、幕末から明治、さらに大正時代初期にかけて活躍した日本画家・松本楓湖の作品で、
15〜16歳の頃の作品と考えられています。
 楓湖は、天保十一年(1840)に現在の新利根町小野の医者の三男として生まれ、絵画の道を志しました。
明治時代には岡倉天心、横山大観らとともに日本美術院の同人になるなど、
その後も美術界で様々な活躍をしました。』

 利根町指定資料より

本堂
[正面]
[拡大]
[左から]
[右から]
[雷神左]
[風神右]
[懸魚]
[中備]
[向拝左]
[向拝右]
向拝竜
[正面]
[拡大]
[裏]
向拝竜
[左]
[拡大]
[裏]
向拝竜
[右]
[拡大]
[裏]
木鼻獅子
[左01]
[左02]
[右01]
[右02]
本堂側面
[左]
[右]
頭貫獅子
前面
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
頭貫獅子
左側
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
頭貫獅子
背面
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
頭貫獅子
右側
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[05.1]
[06]
内陣境欄間:迦陵頻伽と天女
[正面]
[左]
[左左]
[右]
[右右]
逢善寺・仁王門 05.04.30

逢善寺の仁王門にある一対の金剛力士立像は、墨書銘から応永九年(1402)の作といわれ、

(左:那羅延金剛「阿形」・密迹金剛「吽形」)

仁王門とともに東京麹町の日枝神社から同寺に引き取られたものと考えられます。
 左が那羅延金剛で、口を大きく開いている阿形。
右は密迹金剛で、口を閉じている吽形。
仁王像としては茨城県内最古のものといわれています。『茨城県指定』

彫工不明

古い構図

[全景] [蟇股01] [蟇股02] [蟇股03]
逢善寺・手水舎 05.04.30

彫工不明だが、長坂系だが[長坂政右衛門恒教]に近い

水盤の石刻は天保十年(1839)


崩壊寸前の阿弥陀堂は[小松吉次郎] 天保七年(1836)

[全景]
[支輪]
[年代]
[木鼻01]
[木鼻02]
薬王寺(東金市)  [薬王寺・本堂] 05.05.31

[布田薬王寺](東金市布田)

本堂内陣欄間三枚「左=玉巵(ギョクシ)弾琴・中央=波雲に竜・右=馬師皇」

「玉巵」は西王母の娘で竜と共に四海で遊ぶ。

「馬師皇」は八仙人の一人、馬の病気を全て治してしまうので、竜も治療に訪れる。

※左右の欄間は共に竜に関する構図で特に「馬師皇」は「布田の薬師様」に相応しい。


春日神社・本殿胴羽目(市川市妙典)[左]・・・[渋谷茂助置友]


(欄間裏に墨書)[左側裏墨書][中央裏側墨書]

 江戸本所住
   長坂猪之助
     藤原友雅(花押)

玉巵弾琴

[欄間・左]
[拡大]

[左側裏墨書]
風雲・波・竜

[欄間・中央]
[拡大]
[左から]
[中央裏側墨書]
馬師皇

[欄間・右]
[拡大]
[上へ]

宗像神社(munakata-s)・印旛郡印旛村岩戸一,六一五番地

[宗像神社](印旛村岩戸)

本殿銅板葺八幡造2坪 例祭日10月15日

印旛郡誌には、宗像神社岩戸字宮坂は、文化三年(1806)の創建となっている。
岩戸郷七ヶ村の総鎮守。

拝殿に貼り付けてある獅子の彫刻は何処に在ったモノなのか、
旧拝殿に付いていた木鼻なのであろう、長坂猪之助友雅の構図。

彫刻師不明、相当な技の持ち主。

本殿胴羽目の題材は神話 「天之岩戸・天孫降臨・八幡山」
構図・作風・郡詩から本殿創建は文化期のようだ、技・出来、共によい。


05.05.10
逢善寺(茨城県稲敷市)の長坂猪之助友雅作(典拠:資料)を拝見、木鼻獅子と酷似。
宗像神社本殿向拝木鼻竜は長坂家の構図。

逢善寺本堂向拝竜「天保十三年(1842)」はあまりに素晴らしい出来なので、
宗像神社本殿向拝竜と比較が難しいが作風は似ている。

[鳥居]

[拝殿]
拝殿向拝

[蟇股]
[蟇股左]
[蟇股右]
拝殿

[獅子左]

[獅子右]
[本殿]

[向拝]

[向拝竜左]

[向拝竜右]

[拡大]
[胴羽目左]
猿田彦と
天宇受売

[胴羽目右]
天照大神と
手力男命

[胴羽目後]
神功皇后と
武内宿禰
本殿

[障子左]
玉依比売と
玉手箱

[障子右]
浦島太郎
と亀
02.11.02 参拝

04.08.24 向拝竜・木鼻獅子・脇障子・頭貫、入れ替えと追加
*
拝殿に貼付

[獅子左]
[獅子右]
本殿

[本殿左側]
[本殿右側]
木鼻

[木鼻左]
[木鼻右]
脇障子

[障子左]:玉依比売
[障子右]:浦島太郎
本殿胴羽目

[左]:猿田彦と天宇受売
[拡大左]:「天孫降臨」

[胴羽目後]:神功皇后と武内宿禰
「八幡山」

[右]:天照大神と手力男命
[拡大右]:「天之岩戸」
[本殿左側蟇股]

頭貫左
[01]
[02]
[03]

頭貫右
[01]
[02]
[03]
[上へ]

後藤猶之助藤原正義

[磯辺儀兵衛隆顕] (杢齊)の二男 [後藤茂右衛門三代後藤正常]門人

[高部屋神社・拝殿]
(伊勢原市下糟屋2202)
拝殿・幣殿:慶應元年(1865)社殿再興
本殿:昭和四年再建

拝殿向拝蟇股裏刻銘

 東都本所住
  後藤猶之助
    藤原正義
        彫刻

[高部屋神社・拝殿]掲示板画像

[蟇股]:浦島太郎
[右側木鼻]
[刻銘]
[編集拡大]
[上へ]

長坂猪之助友恒

二代長坂猪之助(初代友雅門人) 駒込産 惣次郎 行年八十二才

名跡は弘化三年以降(後藤正義没)、行年が長いので作品はもっと沢山あるハズだ。
初代猪之助とダブっている可能性もある。

また下記の[長坂政右衛門恒教]と一緒に仕事をしている神社も観られる。

幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考までにして戴きたい。

刻銘・資料等あり
*
自性院(坂東市馬立)
「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
瀧蔵神社(中央区千葉寺町)「推定」
嘉永六年(1853)
渡海神社・拝殿
(銚子市高神西町)「推定」
一言主明神・拝殿
(茨城県水海道市)「推定」
慶応三年(1867)
徳満寺・客殿
(茨城県北相馬郡利根町布川)「推定」
研究の余地有り
*
[検見川神社](千葉市花見川区検見川)「推定」
文久三(1863)
自性院(茨城県坂東市馬立) 住職様からの戴き画像

彫工棟梁
 東都本所報恩寺前
  長坂猪之助友恒
      仕  幸重
      手  佐市
      方  忠吉

天井墨絵の銘「ッ葦」(すうい)
落款「田川一嵩」(たがわいっすう)

05.10.13参拝

[石表] [本堂]
[扁額]
[鐘楼]
[内陣]
[欄間]
[刻銘]
双竜
[拡大]
[右]
[中央]
[左]
欄間
[左]
[中央]
[右]
[上へ]

長坂政右衛門恒教

初代長坂猪之助友雅門人 上州新田郡尾島産

幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考までにして戴きたい。

刻銘・資料等あり
*
八幡神社(長南町佐坪)
天保十五年(1844)刻銘
釈蔵院(市原市能満)
扁額・記念碑:天保十三年(1842)
哀愍寺「あいびんじ」(太田市尾島町454) [地図]
本堂向拝竜裏側 「東都亀戸住 長坂恒教作」
若宮八幡神社(市原市五井)「刻銘」
「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
二代長坂友恒や三代長坂友知と共にか、後の仕事をしている神社がある。
共に政右衛門恒教の兄弟子。
*
夷隅神社(大多喜町)「推定」
文政十二年(1829)
鳥見神社(白井市平塚)「推定」
天保五年(1834)
熊野神社・本殿(長南町蔵持)「推定」
嘉永年間(1848〜1854) 本・拝殿を再建
四宮神社(長南町蔵持)「推定」
弘化二年(1845)八月社殿再建
観音教寺・芝山天神(芝山町)「推定」 白幡神社・本殿(長柄町山ノ郷)「推定」
八剱神社・拝殿・向拝竜(習志野市鷺沼)「推定」 逢善寺・手水舎(茨城県稲敷市小野)「推定」
広済寺・山門(川越市)「推定」
八幡神社(長南町佐坪) 参拝03.11.08

建立替えは寛政十一年二月(1799)
再建は天保十五年(1844)

本殿左裏脇障子の[刻銘]

  東都亀戸住
天保十五年
  長坂政右衛門恒教

拝殿

[拝殿]
[向拝]
[向拝竜]
[向拝左]
[向拝右]
[木鼻左]
[木鼻右]
本殿

[左から]
[後]
[右から]
[向拝]
[向拝左]
[向拝右]
本殿

[竜・中央]
[左]
[右]
[脇障子・左]
[接近・左]
[脇障子・右]
[接近・右]
本殿

[小脇板・中央]
[中央・上]
[小脇板・左]
[左・上]
[小脇板・右]
[右・上]
[欄干下羽目・右]
[幣臺]
本殿

[妻側・左]
[妻側・右]
[妻側蟇股01]
[妻側蟇股02]
[妻側蟇股03]
[妻側蟇股04]
05.08.20 参拝

拝殿・本殿

[資料] 拝殿向拝

[竜]
[拡大]
拝殿向拝

[木鼻左]
[右]
拝殿頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
本殿全景
[右から]
[刻銘]
本殿向拝
[竜中央]
[拡大]
[左]
[拡大]
[右]
[拡大]
本殿向拝
木鼻獅子

[左から01]
[02]
[03]
[04]
本殿頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
[上へ]

後藤清次郎・・・二代長坂友恒の門人と想われる。明治三十年頃まで存命。長坂清治郎。
初代長坂猪之助友雅の構図・作風を一番よく継承している。
しかも上手である。

幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考までにして戴きたい。

戸越八幡神社(品川区戸越)
安政二年(1855)
「推定」
*
[碑文谷八幡宮] (目黒区碑文谷)「推定」
明治五年()再建
八幡神社(袖ヶ浦市上泉)「推定」
慶応三年(1867)造営
[北金目神社] (平塚市北金目)「推定」

成田山新勝寺・額堂

東都大伝馬町

同彫工
後藤清次郎
藤原清芳作 花押

[全体] [拡大上] [拡大下] [刻銘]
戸越八幡神社・拝殿(品川区戸越) 05.12.11

創建は安政二年(1855)

彫物師 渡辺平三郎棟續(棟札)
江戸本所 長坂清治郎(棟札)


※参考
稲荷社(川崎市多摩区登戸) 嘉永三年(1850)の棟札

彫工棟梁 上平間村 渡辺喜右エ門棟継
當所 小林佐吉


「安政二年(1855)の棟札に彫物師渡辺平三郎棟續の名を載せるが、題材等に棟續の意向が
窺えるとしても、彫刻は同じ棟札にのせる江戸本所の長坂清治郎が担当したと推定される」
[戸越八幡神社公式ホームページ]より

当日は曇天で社殿軒下は暗くピンボケ画像続出、ご了承願います。
この長坂清治郎は初代長坂猪之助友雅の構図・作風を一番よく継承している。

資料
[創建]
[絵馬]
[石刻]
拝殿
[鳥居]
[正面]
[向拝]
[懸魚]
向拝竜
[正面]
[拡大]
[左]
[右]
木鼻
[左]
[右]
手肘木
[左]
[右]
脇障子
[左]
[右]
頭貫左
[01]
[02]
[03]
[04]
頭貫右
[01]
[02]
本殿

作風は拝殿と同じ

本殿
[左]
[右]
羽目板左
[全体]
[拡大]
[拡大]
[拡大]
羽目板右
[全体]
[左]
[右]
羽目板後
[全体]
[左]
[右]
頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
頭貫竜
[01]
[上へ]

三代長坂猪之助友知・・・兼松(初代長坂猪之助門人)・初代後藤藤太郎、深川産。行年四十二歳。

二代長坂友恒の行年が長く、名跡後若死。

幕末時の長坂系門人(同門)は多く居り、判定が非常に難しい。
したがって「推定」は参考までにして戴きたい。

刻銘・資料等あり
*
[東海寺(布施弁天)・観音堂](柏市) [一之宮神社・境内社](千葉県長生郡一宮町)
「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
八幡大神(香取郡多古町島)「推定」
東海寺・観音堂 明治 03.04.29

刻銘

  世話人

後藤平八

彫工
後藤藤太郎
  門人

  半十郎

「彫工 後藤藤太郎、門人 同半十郎」

長坂友雅の門人に兼松(後藤藤太郎)がいる。
長坂友知として後、三代目長坂猪之助を名跡。

半十郎は名跡前、後の二代藤太郎藤原一重であろう。

竜の鱗が普通と違い、松の木肌を表現する様な作風だ。

[向拝] [向拝竜]

[刻銘]
一之宮玉前神社・境内社(長生郡一宮町) 08.01.13Yoshida様提供画像

[波の伊八ウェブ美術館・玉前神社]

  東都産
彫工三代目
  長坂猪之助友知
    男覚之助友孝作

[三代目長坂猪之助友知]

[境内社木鼻・左側] [境内社木鼻・右側] [境内社・蟇股] [蟇股裏刻銘]
[上へ]

四代長坂猪之助友安 (平次郎) 三代猪之助友恒門人

最初は三代後藤正常門人 後藤光茂(川合平次郎) 神田帷子町住

次は初代長坂猪之助友雅門人そして二代長坂友恒門人。

※管理人は後藤流の小判鮫と称している。

「推定」
*
七百余所神社・本殿(八千代市米本)「推定」
明治十六年(1883)再建

後藤藤太郎・藤原一重・・・二代後藤藤太郎 兼松(初代後藤藤太郎)の門人と想われる。[系譜へ]

文久元年(1861)〜昭和六年没(1931)享年七十歳

父は[後藤勘司]・兄弟四人、[佐藤竹次郎光重]ほか二人は供に彫刻師

[後藤半十郎](初代後藤藤太郎門人)・・・後藤一重と同一人か(幼名)

初代後藤藤太郎(兼松)に弟子入りするが、師匠(藤太郎)は三代長坂猪之助友知名跡するが早死。

藤太郎の実子(覚太郎)は若かったためか、門人の後藤一重が急遽二代藤太郎を名跡(十五歳頃)

南横宿山車彫刻(佐原秋大祭)・明治九年(1876)〜十八年(1885)十五歳時から

覚太郎は[三代後藤藤太郎藤原友孝]を名跡している。

[川口神社・拝殿] (銚子市)に後藤 拾三代目と刻銘。

[延命寺・虚空蔵尊堂] (我孫子市布佐)には
大正十二年(1923)、横浜市大田町住 佐藤一重 と本名で刻銘している。

後藤藤太郎藤原一重、茨城県北相馬郡北方住
(後藤一重・佐藤一重)

左氏後藤彫工世系図によると、兼松(長坂猪之助友雅門人・深川産)は後に三代目長坂猪之助を名跡。
行年四十二才では三代長坂猪之助名跡後、早くに死亡ということになる。

<二代藤太郎が後藤一重(兼松門人)という根拠>管理人説

葺不合神社(我孫子市)は明治三十年(1897)兼松最後の作とした場合、兼松生誕は安政二年(1855)で
兼松の長坂猪之助友雅門人は成立しなくなる。
したがって葺不合神社(我孫子市)の彫刻は二代藤太郎・藤原一重作ということになる。

兼松は三代長坂猪之助友知を名跡するが、その前は初代後藤藤太郎であった。
左氏後藤彫工世系図に二代藤太郎は載っていない。
初代藤太郎(兼松)の次が三代藤太郎友孝(兼松男・覚太郎)になっていて二代藤太郎が掲載されていない。
これは兼松が三代長坂猪之助友知名跡後急死したため、一重(二代藤太郎)は見逃されたと想われる。

二代後藤藤太郎・藤原一重が居れば兼松が行年四十二歳でもつじつまが合うし、
三代藤太郎友孝(覚太郎・兼松男)が三代藤太郎となっていても不思議はない。

要するに二代藤太郎は明治二十一年芸術部の加筆・改訂から抜け落ちたと想われる。
この芸術部の加筆には常州(茨城県)の後藤系情報が殆ど記載されていない。
後藤本流が東都(五代〜九代)以降、常州(十代茂右衛門正忠)に移ったことと関係があるのか。

余談だが
五代茂右衛門正綱は幕府御用勤時以前は一般社寺に作は発見されていない。
しかし、天保十二年の後藤茂右衛門作は初見である。
したがって、天保時代初期に五代茂右衛門正忠は退職したと考察。

ココで云う後藤藤太郎一重は二代後藤藤太郎であり、後藤一重は初代藤太郎(兼松)の門人と考える。
作風からいっても、父・[後藤勘司] の元で修行したとは考えられない。

[彫工世系図]後藤藤太郎家は変更、編集しました。

刻銘・資料(墨書)等がある。
*
八幡神社(佐倉市上志津)「刻銘」
刻銘「後藤一□彫」
葺不合神社(我孫子市)
明治三十年(1897) 『我孫子市史11.12号』
関戸神社(干潟町関戸)「刻銘」
明治二十五年(1892)
川口神社・拝殿(銚子市川口町)「刻銘」
長福寺境内・八十一番大師堂(我孫子市新木)
明治三十二年(1899)一月二十日
石碑「刻銘」
延命寺・虚空蔵尊堂(我孫子市布佐)
大正十二年(1923)
佐藤一重 六十四歳 「刻銘」
南横宿山車彫刻(佐原秋大祭)
明治九年(1876)〜十八年(1885)
十五歳時
大曽根八幡神社
埼玉県八潮市大曽根[地図]
明治二十八年(1895)
常陸北方 後藤一重
「推定」・・・構図・作風の特徴から
*
正泉寺
(我孫子市湖北台)「推定」
稲荷神社
(沼南町五条谷)「推定」
荘厳寺
(佐原市)「推定」
清瀧神社
(伊奈町狸渕)「推定」
七百余所神社・拝殿
(八千代市米本)「推定」
明治三十二年(1899)改造
稲荷神社
(八千代市米本)「推定」
明治二十七年(1894)再建
大宮神社(八千代市島田)「推定」
明治二十六年(1893)
立行寺・墓地覆屋
(白金二)「推定」
楽満寺・山門
(成田市中里)「推定」
川口神社・拝殿(銚子市川口町) 06.04.14

『刻銘』

   茨城縣下
  北相馬郡
     北方村
後藤
   拾三代目
  藤太郎
    藤原
    一重
   ○○○○


藤太郎だと拝殿再建は明治中期か、しかし後藤拾三代目とは驚きの刻銘発見です。

[川口神社・本殿][長坂猪之助友雅]「推定」

[鳥居]
[鳥居河口]
[拝殿]
[左側]
[右側]
[向拝]
拝殿向拝竜
[正面]
[左側]
[中央拡大]
[右拡大]
[右側]
[裏]
[刻銘]
木鼻
[左全体]
[木鼻のみ]
[右全体]
[木鼻のみ]
向拝柱
[左]
[右]
[上へ]
関戸神社(干潟町関戸) 05.09.19

鎮守改造紀年
明治二十五年五月落成(1892)

本殿彫工 胴羽目左側刻銘


後藤一重之作


後藤一重=後藤藤太郎 藤原一重

[左] 櫻井の別れの場面か
[背面] 天の岩戸開き
[右] 養老乃瀧図

[拝殿]
[石碑]
[本殿左]
[本殿右]
[本殿裏]
向拝
[裏側]
[木鼻左]
[右]
手挟
[左]
[右]
小脇板
[左から]
[拡大]
[右拡大]
胴羽目
[左]
[背面]
[右]
[刻銘]
脇障子
[左]
[裏]
[右]
[裏]
頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
破風
懸魚
[左]
[右]
[上へ]
葺不合神社(我孫子市新木1812) 拝殿・本殿 04.07.28

現本殿の建立は明治三十年(1897)

荒(新)木 木村末吉

彫刻師 北相馬郡北方住 後藤籐太郎・・・『我孫子市史11.12号』

謂われがあるのか、竜・獅子の眼は総て抜いてある。
全体的に丁寧な仕事である。

拝殿
[正面]
[左から]
[右から]
[本殿]
[右から]
本殿
[左側]
[右側]
[向拝正面]
[小脇板]
[中備]
[向拝左]
[向拝右]
本殿
[懸魚]
[向拝竜]
[拡大]
[竜右から]
本殿
[木鼻・左]
[木鼻・右]
向拝柱
[左]
[拡大]
[右]
[拡大]
下羽目
[回廊・正面]
[回廊・右]
[登勾欄・左]
[拡大]
[登勾欄・右]
[拡大]
欄干下羽目
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
妻側
[左上]
[左中]
[右上]
[右中]
[後軒下]
胴羽目
[左・洋風]
[後・天之岩戸]
[拡大]
[右・素戔鳴尊]
[右・障子入り]
脇障子
[左]
[右]
頭貫
[下・01]
[下・02]
[上・01]
[上・02]
年代石刻
[安永五年]
[元文三年]
[上へ]
正泉寺・本堂、鐘楼、堂(我孫子市湖北台9−12) 曹洞宗 04.01.18

刻銘 後藤籐太郎(北方村)  『我孫子市史』

素材の質(おそらく地松)が悪いので、総て腐食している。

本堂
[向拝]
鐘楼
[全景]
[虹梁]
[木鼻01]
[木鼻02]
[木鼻03]
[木鼻04]
お堂
[全景]
[向拝]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[向拝竜]
[上へ]
八幡神社本殿・佐倉市上志津一五四五番地 本殿茅葺流造一坪 例祭日九月十五日  後藤一重

04.08.27 総ての画像更新

虹梁蟇股:「神功皇后と武内宿禰」

胴羽目・左:「仁徳天皇の和歌」
『高きやに 登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎわいにけり』

胴羽目・背面:「天の岩戸開き」

胴羽目・右:「鳥を見やる武将二人」

本殿扉:「源義家・雁行の乱れ」

刻銘「後藤一□彫」=後藤一重

構図・作風から[後藤籐太郎・藤原一重]

八幡神社

[鳥居]
[本殿]
本殿向拝

[正面]
[蟇股]
[扉]
向拝木鼻

[左]
[右]
胴羽目

[左]
[拡大]
[背面]
[右]
妻側懸魚

[左]
[右]
本殿頭貫

[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
[上へ]

後藤半十郎・・・初代後藤藤太郎(三代長坂友知)門人・[二代後藤藤太郎]「推定」

東海寺・観音堂(柏市布施) 明治   03.04.29

刻銘 「彫工 後藤藤太郎、門人 同半十郎」

竜の鱗が普通と違い、松の木肌を表現する様な作風だ。

半十郎は二代藤太郎名跡前の名前なのか?

観音堂の建立年代が判ると、初代藤太郎か二代藤太郎かが判定できる。

[向拝] [向拝竜]

[刻銘]
[上へ]

三代後藤藤太郎友孝(覚太郎・兼松男) 覚之助友孝

三代猪之助友知(兼松)の長男

一之宮神社・境内社(千葉県長生郡一宮町)
父・三代猪之助友知と刻銘
「推定」

[新四国相馬霊場八十八ヵ所] 取手市・我孫子市
*
延命寺・大師堂・新四国相馬霊場・第二十四番
(我孫子市布佐)「推定」
観音寺・大師堂・新四国相馬霊場・第二十九番
(我孫子市日秀)「推定」
星影神社境内・厄除け大師四十二番「推定」
(船橋市二和西)
西音寺・七十四番大師堂「推定」
(我孫子市下ヶ戸)
[上へ]

後藤重四郎・・・二代後藤籐太郎藤原一重門人

東海寺(布施弁天)大日堂 明治 03.04.29

刻銘 「彫工 後藤重四郎」

[向拝] [木鼻左]
見返り獅子「牡丹に篭毬」

[木鼻右]
見返り獅子「梅に篭毬」
水神社(佐原市長島208) 明治十八年再建(1885) 04.08.01

刻銘

    後藤
      籐太郎
   藤原一重

 門人
   重四郎
      彫

鎮守水神社

[鳥居]

[覆屋]
本殿向拝
[正面]
[竜・右]
[拡大・右]
[竜・左]
[裏]
[刻銘]
向拝木鼻

[左]
[右]
向拝

[扉上]
[小脇板・左]
[小脇板・右]
[手挟・左]
[手挟・右]
脇障子

[左]:黄 石公

[右]:張 良
胴回上頭貫

[01]
[02]
[03]
[04]
欄干下羽目
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
妻側板蟇股

[左]

[右]
[上へ]