柴又帝釈天  [社寺名で検索]  [二十四孝・その他見立て絵図]  [日本年号・江戸時代]  


[柴又帝釈天公式ホームページ] (経榮山題教寺)・葛飾区柴又7-10-3

日蓮宗、経榮山。
開創:江戸時代の寛永六年(1629)
開山:中山法華経寺十九世禅那院日忠
『新全国寺社・仏像ガイド』

建物の配置
*
************************************************************************





彫刻ギャラリー(平成三年)・帝釈天堂本殿
(胴羽目抜いた全部明治四十年)
(内殿大正四年)
(胴羽目十枚昭和九年)
大客殿(昭和四年)□

[遷渓園]

====[大客殿廊下]========□祖師堂・奥殿
  (昭和三十五年)       (明治二十一年)
幣殿□  

帝釈天堂拝殿□  
(昭和四年)    
         (平成六年)
        本堂欄間に「群猿遊戯図」を完成

========[渡り廊下] ======□祖師堂(本堂)
                   (明治二十一年)
御神水・浄行菩薩(左)
    (明治の作)
          □水舎(右)
          (昭和の作)
釈迦堂
当山最古の
建造物
文化・文政期?
大鐘楼
(昭和三十年)
************************□山門(二天門)******************□南大門*********************
(明治二十九年)                  
*
*
柴又帝釈天(経榮山題教寺)に関わった彫工 ↓
*
[園田彫刻店]

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帝釈天堂「法華経説話」 [帝釈天堂・胴羽目]  [川千家ホームページ]

[胴羽目ミニチュア版]・・・大客殿廊下

この帝釈天堂をめぐる外壁「胴羽目」の木彫は法華経説話より取材し、
当時、東京在住の彫工により彫られ、重要文化財的価値があると云われているが・・・。
昭和九年(1934)では時代が新しい?
四代伊八郎・高石仙蔵がもう少し長生きであったならば・・・残念 ! !

加藤寅之助の発案で東京在住の後藤流彫刻師に依頼、法華経の絵解きの図を参考に高山英州師が下絵を描く。

(絵解き図) (彫工) (系統)
[塔供養の図] [金子 光清] (小松重太郎門人)
後藤流小松家
[三車火宅の図] [木嶋 江運] (後藤秀吉・養子)
千倉後藤系
[慈雨等潤の図] 三五郎[石川 信光] (三代信光・二代銀次朗・男)
二代から後藤流石川家
[法師修行の図] [横谷 光一] (二代石川銀次朗信光・門人)
石川信光分家・後藤流
[多宝塔出現の図] [石川 銀次朗] 二代信光・石川家へ婿入り
(弥勒寺音八の子)後藤流で修行?
父・弥勒寺音八は[石原流]
[千載給仕の図] [加府藤 正一] 徳願寺(市川市)で後藤流彫工と
供に彫刻施工
[龍女成仏の図] 山本 一芳 詳細不明
[病即消滅の図] 今関 光次 金子光清門人
[常不軽菩薩受難の図・
法華経功徳の図]
小林 直光 詳細不明(金子光清門人か?)
10 [法師守護の図] 加藤 寅之助 (加藤勘造・男)後藤流
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高石仙蔵《四代伊八郎信明》

四代信明は明治二十九年(1896)横浜の加藤勘造氏に呼ばれ二天門の裏側を担当している。

明治三十五年には既に柴又門前に居た記録があるが明治三十六年頃は、
厩橋で独立していた後藤桂林の依頼で
[取手の八坂神社・本殿改築欄干下羽目板の彫刻]を担当している。
帝釈天堂廻廊欄干下羽目板「波に亀図」と酷似です。

四代武志伊八・信明(高石仙蔵)の手がけた仕事は、二天門の裏側、水舎(境内左)の後部と木鼻竜(傑作)、
帝釈天堂の内陣、屋根下廻り及び廻廊下廻りで帝釈堂の[胴羽目10枚を除く総て]
帝釈天堂の内陣を観てみたい、きっと素晴らしい出来映えと想われます。

彫刻ギャラリーは平成三年に完成した。
帝釈天堂の[資料]に「他の彫刻は複数の彫物師」とあるが、これは当時御住職様の「推定」であろう。
あまりに彫刻の点数が多く、とても一人では施工できないと勝手に思い込み「複数の彫刻師」と
説明板に書いてしまったと考えられる、他の彫物師の手は観られないし
具体的に複数の彫刻師名は発表出来ないであろう、だれも居ないのだから・・・。

「複数の彫物師」とは加藤師門人・園田正直氏と他のダレのことを云っているのであろうか?
ここまで解っているのにヨクイイマスヨネ。



06.08.14
[幣殿内陣・外側屋根下廻り]を拝見、幣殿内陣は撮影不可。

これだけの技を見せられたら、当時の東京住・彫刻師は四代伊八に一目置くほかはないでしょう。
帝釈天堂胴羽目彫刻の公募でも一等に入選して、彫刻に取りかかる寸前に
重い伝染病で松戸の病院に入院、明治四十一年九月に四十七歳で急死している。

*

屏風仕立ての下絵

帝釈天堂の彫刻は十枚の胴羽目を除く総てが四代武志伊八・信明(高石仙蔵)の作です。

いろいろなところで胴羽目十枚は紹介されているが、
その胴羽目彫刻(当時は一般公募)も
四代武志伊八郎・信明(高石仙蔵)が彫刻(一等で選出)する予定であった。

庫裡にある彫刻下絵は一般公募したとき、コンクールに出品して
一等で選出された下絵で仙蔵さんの描いた胴羽目下絵である。

屏風仕立てにした下絵は当時御住職様はダレの作か解らず「生前の長谷川治一先生に尋ねている」が
先生は曖昧な返事をしたそうです。
するとナント恐れ多くも横山大観の作と表示、長谷川先生は大層ご立腹でした。

※ウワサ通り、相当な○○坊主です ! !

[下絵01]  [下絵02]:横山大観作となっているが横山大観の「松」とは描き方が違う。

この「松」の下絵は彫刻師の彫り方と同じ方法で描かれており、彫刻師による下絵ということが理解できる。

横山大観のような日本画の画家は松葉をこのように描かない。
また、メリハリのない一本調子の筆の運びは誰が観ても大観の作ではないことが明らかであろう。
画家はこのような筆遣いはしないもので、他の画家や絵師による下絵でもない。

何故そうまでして横山大観作などと見栄をはる必要があるのか、
四代伊八郎信明を蔑ろにしていると思うのは私だけではないでしょう。

信明は門前の人達から「仙蔵さん」と呼ばれ、とても人気のあった人物と云われています。

寅さんが知ったらどうでしょう、「それを言っチャーお終メーヨ〜」

御住職様異論があるのでしたら、横山大観記念館に鑑定して頂いたらどうでしょう。

それにしてもまだ「横山大観作」として置いてあるのでしょうかね。
横山大観からすれば偽物ですから横山大観記念館からクレームが付くと思いますがね・・・。
そのうち明るみに出るでしょう。

[日本語俗語辞書]
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園田正信氏の証言・・・柴又帝釈天門前・彫刻師
*
園田正直氏は加藤勘造氏の弟子で高石仙蔵のもとで共に四年間奥の仕事をしていた。
正直氏によれば、四代信明の手掛けた仕事は
「二天門の裏側」「水屋の後部と象鼻」「帝釈堂の内陣」「屋根下廻り・廻廊下廻り」
「堂の胴回り(胴羽目)」を除く全部である、と証言している。

明治四十年頃帝釈堂の胴羽目の彫刻を公募することになった。
四代信明も応募したところ、多くの作品の中から一位に入選し、光栄ある彫刻を始めようとした寸前、
明治四十一年九月突如の重い伝染病にかかり、対岸の松戸避病舎で急死した。
その時信明の描いた下絵は「松の枝に猿が遊んでいる絵」であったとのことです。

明治四十年には「十枚の胴羽目」以外は全て完成しているので、
よく云われる大正から昭和の彫工が胴羽目以外で帝釈天堂に関わることはない。

その後十名の少壮作家に依頼して胴羽目「法華経説話彫刻」を昭和九年(1934)に完成させた。
この十名の東京住彫刻師の中にあの後藤桂林の門人は一人も含まれていないし、
その他の仕事にも一切後藤桂林門人の名は出てこない。

下記にあるように後藤高之助(桂林)は下職時代に祖師堂の仕事をしている。
[取手の八坂神社・本殿]の再建では後藤桂林と高石仙蔵は共に仕事をしている。

後藤桂林は高石仙蔵師に敬意を表し、
帝釈天には関わらないようにと門弟に言い渡してあったのであろう。
しかし、その他の社寺で[後藤桂林の門人達](十人以上居る)は目覚ましい活躍を見せている。

*
※石川銀次朗は当時七十六歳ですから少壮の彫物師ではないですね、
金子光清は当時五十七歳少壮の彫物師なのか?

あまりにも四代伊八郎こと高石仙蔵を蔑ろにしている説明なので
故長谷川氏は他の意味で言ったのでしょう。
(管理人注釈)
*

もし高石仙蔵(四代伊八郎)が若死していなかったら、
近世に名を残す名作を多く残してくれたであろうと語られている。
*
『波の伊八 長谷川 治一編・著』より
長谷川治一先生は平成二十一年九月お亡くなりになりました。
*
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『祖師堂(本堂)の彫刻師』

明治二十一年(1888)の祖師堂(旧本堂)向拝竜裏の[刻銘個所]は他の木材をはめ込み削除されている。
社寺彫刻請負師後藤功祐は明治二十年頃に亡くなっているので、
後藤功祐の門人による仕業と想われる。
虹梁・木鼻の彫刻は素晴らしい出来映えである。

なぜ刻銘ヵ所が削除されているのか?

「二十歳当時、高之助は同じ後藤流彫刻師・本所六軒堀の後藤功祐(手配師)の職人として身を寄せた。
後藤縫之助の長男で若い頃から腕がよいので後藤功祐は高之助をなかなか手放してくれなかった。」

おそらく祖師堂(旧本堂)の彫刻は[後藤功祐]の請負であり、下職の場合刻銘をすることは許されていない。
後藤高之助は後藤桂林として明治二十年に厩橋脇にて独立する。
このことで後藤高之助は後藤功祐の門人ではなく下請け職人であったことが理解できる。
(門人の場合は師匠の名を入れ、刻銘することが許されている)

十年後、墨田区厩橋にて独立、その彫工の名は後藤高之助=[後藤桂林]「推定」☆☆☆
*
[谷中][後藤桂林の門人達]の作品が多数点在するが、
[後藤桂林]刻銘のある寺院は谷中の[天眼禅寺]、私の知る所の1カ所です。

祖師堂(本堂)・奥殿の脇障子と軒下廻りの頭貫は[高沢改之助] 管理人「推定」☆☆☆
高沢改之助は後藤高之助より早くから後藤功祐の下職であり、
明治初期、東京下町の社寺に作を多く観ることが出来るが
全て管理人の発見で「推定」となります。

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なぜ茨城県取手市の八坂神社で四代伊八郎信明と後藤桂林は共に仕事をしたのか?
[取手の八坂神社]

[帝釈天と四代伊八郎]   [二代〜五代伊八郎]

加藤家・・・柴又帝釈天には三代に渡って彫物棟梁として携わる、横浜住、構図・作風から管理人は後藤流と思う。

師匠は不明 加藤勘造
二天門
加藤寅之助
帝釈天拝殿
加藤正春
帝釈天から祖師堂の渡り廊下
鐘楼

香取神社(葛飾区東水元)

[日本寺・渋谷氏廟門](多古町)
→園田正直
加藤勘造・門人
→園田正信(柴又帝釈天門前)
正直・倅
参道園田彫刻店 06.08.14

[火焔竜]   [刻銘]

礼林寺(市川市大野)「刻銘」 経王寺・本堂
荒川区西日暮里3-2-6[地図]
葛西神社・金町招魂社
(葛飾区東金町)[地図]
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「加藤勘造」(後藤流・管理人推定)・・・帝釈天・二天門彫工

山門(二天門) 03.12.04

大工棟梁:坂田留吉

明治二十九年から横浜の加藤勘造氏が中心となって二天門彫刻を施工

二天門裏側を彫刻する頃、四代・信明(高石仙蔵)は加藤勘造氏から柴又帝釈天に呼ばれる。

※疑問なのは、後藤流の加藤勘造氏が何故江戸時代後期から敵対していた
嶋村流系の四代伊八郎信明(高石仙蔵)を呼んだのであろうか、ということ。

加藤勘造氏はたいそうな人格者で公正な見識の持ち主であったと云われている。
四代伊八郎信明は他流も認める名人として名が通っていたのであろう。

※その後もココ柴又帝釈天門前に居住していたが、明治三十六年(1903)頃、
[八坂神社・本殿](取手市)「後藤縫殿之助請」において後藤縫殿之助の次男・保之助は
兄・後藤桂林に仕事を頼み、桂林が高石仙蔵に依頼したものと思われる。

八坂神社・本殿:高石仙蔵師は本殿・欄干下回り各羽目板・頭貫・懸魚の仕事を施工している。
*


[園田正信氏の証言]・・・加藤勘造氏の弟子

[表]
[虹梁・表中央]:十六羅漢
[虹梁・中側]:十六羅漢
[虹梁・中側裏]:大江山
[虹梁・裏中央]:十六羅漢

[羽目板・表左]:羅漢図
[羽目板・表右]:羅漢図
裏側・・・ 四代・信明の作ありそうです。
下絵は加藤勘造師の後藤流なので、
飛竜・波も後藤流の彫り方に徹している。

[羽目板・裏左]:羅漢図・猿遊図
[羽目板・裏右]:羅漢図・猿遊図
[羽目板・裏左脇]:羅漢図・飛竜
[羽目板・裏右脇]:羅漢図・飛竜

二天門 06.08.14

[加藤家へ ↑]
[表] 二天門・扉
[左・虎]
[右・竜]
木鼻
[左01]
[左02]
[右03]
[右04]
表門・蟇股
[中央]:十六羅漢図
[左]:羅漢図
[右]:羅漢図

鐘楼 06.08.14

昭和三十年(1955)名匠・林亥助棟梁[大隅流林家末裔]によって完成された総欅の大鐘楼。
高さ約15m、四手先の豪壮な桝組と木彫りが施されています。

蟇股は日蓮説話

[加藤正春]:参照

[正面]
[拡大]
木鼻
[左]
[右]
蟇股
[左]:日蓮説話
[右]:日蓮説話
虹梁
[左]
[右]
[top]

御神水・浄行菩薩 06.08.14

四代伊八・高石信明の[竜]

金網が掛かっているので焦点が合わず他の画像は全て失敗。

ついでの時、またチャレンジする予定。

[二代〜五代伊八郎]


手水舎(境内右側) 03.12.04

昭和初期の建立[全景]

総ての彫刻に刻銘あり、後藤流彫工

帝釈天胴羽目彫刻者と帝釈天内殿以外の彫刻製作に参加した彫刻師名と想われ、
全て東京住少壮彫刻師、後藤流である。
「石川信光・金子光清・後藤義光の門人系統の彫工達」

※祖師堂(本堂)の彫物を担当した[後藤桂林の門人]は一人も居ない。

「江戸時代石川周信を祖とする石川家、幕末は四代石川周信朝光→本流後継は牙彫・木彫の石川光明」
石川光明は後に東京美術学校の教授となり、木彫・牙彫の芸術性を高める。

宮彫りに拘った石川三之介信光は三代周信石川豊光門人、元々石原流であったが
三之介信光には男子無く、後藤流の銀次朗(三之介・娘婿)以降、石川信光家は後藤流になる。
二代石川銀次朗と三代石川三五郎は親子である。

境内右側手水舎の彫物は一点ずつに刻銘あり
[木鼻竜]

[石川信光作]
三代三五郎信光
[虹梁]

[後藤南汀作]
後藤義光の系統
[虹梁]

[後藤橘義正作]
後藤義信の門人
入船住
[虹梁上]
木嶋正夫作

[木鼻竜]

[木島江運作]
後藤秀吉・養子
[籠彫り01]

[池田信之作]
金子光清次男
[籠彫り02]

[横谷光一作]
金子光清門人
[籠彫り03]

[天堅吉正作]
[籠彫り04]

[山本一芳作]
[籠彫り05]

[山本栄雲作]

東京都港区芝白金住
(昭和二十九年)
[籠彫り06]

[荒川淘光作]
初代三之助信光
の外曾孫
[籠彫り07]

[山田俊光作]
[籠彫り08]

[大塚信孝作]
[top]

帝釈天拝殿 03.12.04

[向拝竜]

昭和四年[加藤寅之助刻銘]

拝殿 06.08.14     [加藤家へ ↑]

[懸魚]
[向拝竜]
[拡大]
木鼻
[左]
[右]
頭貫
[左]
[右]
拝殿扁額
[全体]
[上・拡大]
[下・拡大]

拝殿扉の彫物(表の部分)十二支・・・画像はいちごものがたりさんヨリ

[鼠]  [牛]  [猿]  [鶏]  [犬]  [猪]

*

四代伊八郎信明・高石仙蔵の作風と下絵

帝釈天幣殿部・四代信明の作風

[裏・右側]   [裏・左側]

[top]

柴又帝釈天・庫裡(中庭と屏風仕立ての下絵)

帝釈天堂と祖師堂の間裏に庫裡が在る

[中庭01]   [中庭02]

屏風に仕立てた下絵は横山大観作とあるが、横山大観作ではない。

四代伊八・信明が描きコンクールで一等となった帝釈天堂胴羽目用の下絵です。

[下絵01]   [下絵02]

この下絵を胴羽目に彫刻することになっていたが直前に病死してしまった。

平成六年この下絵「群猿遊戯図」で彫刻を完成している。
祖師堂(旧本堂)欄間:彫刻
[横谷芳一]


[東京住後藤流彫刻師]

大客殿・遷渓園・中庭

東京都選定歴史的建造物
所在地  葛飾区柴又7-10-3
設計者  大工棟梁  鈴木源治郎
建築年  昭和四年(1929)

06.08.14 あいにくのにわか雨

[01入り口]  [02]  [03]  [04]  [04]

[top]

帝釈天堂・胴羽目 03.12.04

「本来は四代信明の(千匹猿の遊図)[群猿遊戯図]が彫刻されるハズであったが・・・。」 

入り口から[右側全体][後側全体][左側全体]下段の千羽鶴図、屋根下廻り総て四代伊八・信明作


「当時東京在住十人の彫刻師」

[金子光清]  [石川家系譜]  [木嶋江運]  [横谷光一]  [石川三五郎信光]  [石川 銀次朗]

※名前に「」が多いのは「石川銀次郎信」と「金子清」の門人が多い為
また、金子光清の次男・信之が石川家(池田姓)に婿入りしたことにより、
石川信光(三五郎)と金子家は親類関係になる。

金子光清は[小松重太郎光重]の門人で後藤流。

[塔供養の図]
[拡大]

[金子光清・作品説明]
[三車火宅の図]
[拡大]

[木嶋江運・作品説明]
[慈雨等潤の図]
[拡大]

[石川信光・作品説明]
[法師修行の図]
[拡大]

[横谷光一・作品説明]
[多宝塔出現の図]
[拡大]

[石川銀次朗・作品説明]
[千載給仕の図]
[拡大]

[加府籐正一・作品説明]
[龍女成仏の図]
[拡大]

[山本一芳・作品説明]
[病即消滅の図]
[拡大]

[今関光次・作品説明]
[常不軽菩薩受難の図・
法華経功徳の図]

[拡大]

[小林直光・作品説明]
[法師守護の図]
[拡大]

[加藤寅之助・作品説明]
帝釈天堂・縁下羽目

四代伊八・信明作
(高石仙蔵)
[波の伊八ウェブ美術館]

[資料]
「他の彫刻は複数の彫物師」
とあるが、
[園田正信氏の証言]
十枚の胴羽目以外は
全て高石仙蔵氏(四代伊八)
殆ど一人の作

胴羽目「群猿遊戯図」
[下絵01] [下絵02]
自作下絵も仙蔵氏が
彫刻する予定であった。

[持ち送り貫・入口]
[持ち送り貫・後左]
[持ち送り貫・波]
季節の「花鳥図」と
「波に亀図」

[花鳥図・亀図01]
[花鳥図・亀図02]
[花鳥図・亀図03]
[花鳥図・亀図04]
[花鳥図・亀図05]
[花鳥図・亀図06]
[花鳥図・亀図07]
[花鳥図・亀図08]
[花鳥図・亀図09]
[花鳥図・亀図10]
[top]

経榮山題教寺・祖師堂(旧本堂) 03.12.04

明治期の現・帝釈堂ができる前は帝釈堂として利用された建造物を明治になって、
大修理を加えて祖師堂としたもの。

明治二十一年(1888)竣工

向拝竜の刻銘は削除されているが彫工は独立寸前の[後藤高之助桂林] 「推定」☆☆☆

流石に上手、ここでは常州後藤流の構図を使用している。

[削除された個所]

[向拝]
[竜]
宝づくしの図

[虹梁・左]
[虹梁・右]

[木鼻・左]
[木鼻・右]
[手挟み・左]
[手挟み・右]
本堂前面頭貫

[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
[top]

題教寺本堂・奥殿 06.08.14

石原流の[高沢介之助][後藤功祐](武州寄居産)の下職で帝釈天の仕事をしたとあります。

構図・作風・年代から祖師堂(旧本堂)奥殿頭貫・脇障子は高沢改之助と想われる。

刻銘・墨書等の資料はありませんので管理人の「推定」です。

高沢改之助・後藤高之助、共に個性のある彫工で明治初期の名人彫刻師です。
しかし、ここでは下職であり各々本流の基本を忠実に守って施工しています。

先にも書いたように高沢改之助・後藤高之助(後の桂林)の下職時の作には刻銘等の資料はありません。
近年、管理人による発見「推定」が相次いでおりますから個別のファイルを参考にして下さい。

[高沢改之助] 「推定」
*
奥殿

[左側]
奥殿・脇障子

[左]
[右]
奥殿・頭貫

[01左]
[02左]

[06右]
[07右]
奥殿・頭貫

[03後]
[04後]
[05後]
釈迦堂 03.12.04

当山最古の建造物、文化・文政期 向拝は後に改築。

向拝の彫刻:刻銘は無いが作風から[五代伊八郎・高石信月](信明・倅) 「推定」

刻銘・墨書等の裏付けはありませんので管理人の「推定」です。

[向拝] [竜]
[竜裏]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[波の特徴]
[上へ]

帝釈天・幣殿 06.08.14 四代伊八郎信明・高石仙蔵

幣殿の欄間は「仙人と唐子の図」・頭貫は「獅子頭」

稲荷神社(八千代市米本)[胴羽目・背面]:幣殿欄間[仙人と唐子02]は同じ説話
「養老の孝子」

幣殿内陣・外の木鼻、欄間等全部・・・[園田正信氏の証言]

[二代〜五代伊八郎]・・・四代伊八郎信明・高石仙蔵(本名)

右側・欄間
「竹林七賢人」
[01]
[02]
[03]

[04]:「西園雅集」
左側・欄間
[01]:竹林七賢人

[02]:「養老の孝子」
[03]:仙人・唐子
[04]:仙人・唐子
右側・頭貫

[01]
[02]
[03]
左側・頭貫

[01]
[02]
[03]
花頭窓

[右側]

[左側]
[top]

「柴又帝釈天堂」 帝釈天・本殿 06.08.14

設計:林 門作 [大隅流林家末裔]

棟梁:坂田留吉の指揮

頭貫は「獅子頭」
胴回り上の欄間は「天女」、その上板蟇股「十二支」
胴廻り下羽目は「千羽鶴」
廻廊下回り上段「花鳥図」、下段「波に亀図」

帝釈天堂胴羽目十枚を抜かした全部の彫刻、明治四十年には完成している。
したがって大正・昭和の彫工が帝釈天堂に参加する場所はない。
よって、[帝釈天堂内の説明資料]の「他の彫刻は複数の彫物師」の記述、住職様の「推定」は間違っている。

四代伊八・高石信明(仙蔵)の作・・・[園田正信氏の証言]

[二代〜五代伊八郎]・・・四代伊八・高石信明(仙蔵)

ガラスで囲われた
彫刻ギャラリー
平成三年完成

[本殿右側]
[尾垂木・右]

本殿・欄間
[右側]
[背面]
[左側]
頭貫・右側

[01]
[02]
[03]
[04]
頭貫・背面

[05]
[06]
[07]
[08]
[09]
頭貫・左側

[10]
[11]
[12]
[13]
欄間「天女」右側
:は上段蟇股

[01]:猿
[02]:羊
[03]:午
欄間「天女」背面
:は上段蟇股

[04]:蛇
[05]:辰
[06]:卯
[07]:寅
欄間「天女」左側
:は上段蟇股

[08]:丑
[09]:子
[10]:亥
胴羽目下段「千羽鶴」
右側

[01]:松
[02]:梅
[03]:笹
胴羽目下段「千羽鶴」
背面

[04]:波
[05]:波
[06]:波
[07]:松、波
胴羽目下段「千羽鶴」
左側

[08]:小松
[09]:幼松
[10]:小松
浜床「波に麒麟」

[左]
[右]
廻廊下羽目板
「花鳥図」「波に亀」
左側

[01]
[02]
[03]
廻廊下羽目板
「花鳥図」「波に亀」
背面

[04]
[05]
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廻廊下羽目板
「花鳥図」「波に亀」
右側

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大廻廊は昭和三十五年完成

渡り廊下・左右欄間 06.08.14

刻銘:加藤正春・・・加藤寅之助の後継。[加藤家へ ↑]

[日本寺・渋谷氏廟門(多古町)]
刻銘:「彫工加藤」「正春作」・・・木鼻獅子胸部刻

渡り廊下:[左側]   [右側]・・・外側にも在る。

[人車の図]
[刻銘]:加藤正春
加藤正春之作

[中川の図]
[立石の図]
[城]
加藤正春之作

[新宿の渡し]
[新宿参道]
[御神水]
加藤正春之作

[銚子講中]
[中川釣の図]
[浅草出開帳]
[流行]
[日敬上人江戸市街
巡錫]
:平田角太夫

加藤正春之作
[江戸巡錫]
[庚申帝釈天出現]
[日敬上人托鉢に出る]
客殿廊下の胴羽目彫刻ミニチュア 06.08.14

帝釈天胴羽目作者、その後継、不明あり。
レリーフ調の胴羽目ミニチュアは後年制作されたもの、すでに亡くなっている彫刻師もいる。
金子光清は昭和二十一年(1946)七十四歳で没す、ですからそれ以前の作。

石川銀次郎の刻銘に七十九翁とあり、没年と行年が同じ。
この仕事の後死亡したと想われる。

[木島江運][木島正夫] (延幸)「江運の倅」
仕事が出来ない状態か既に亡くなっているのか、加府藤正一・加藤寅之助の分を彫刻している。

日展参与 木嶋延幸彫刻展(成東町文化会館のぎくプラザ)・・・平成14年5月19日〜9月29日
(パンフレット参考)

[塔供養の図]
[刻銘]:光清

胴羽目:金子光清
[三車火宅の図]
[刻銘]:江運

胴羽目:木島江運
[慈雨等潤の図]
[刻銘]:石川信光

胴羽目:石川信光
[法師修行の図]
[刻銘]:光一

胴羽目:横谷光一
[多宝塔出現の図]
[刻銘]:石川銀次朗

胴羽目:石川銀次朗
[千載給仕の図]
[刻銘]:木島正夫

胴羽目:加府藤正一
[竜女成仏の図]
刻銘発見出来ず

胴羽目:山本一芳
[病即消滅の図]
[刻銘]:光次

胴羽目:今関光次
[常不軽菩薩受難・
法華経功徳の図]

[刻銘]:小林直光

胴羽目:小林直光
[法師守護の図]
[刻銘]:木嶋正夫

胴羽目:加藤寅之助
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柴又帝釈天(経榮山題教寺)に関わった彫工

刻銘墨書等が発見されていない作には「推定」とした。
*
本堂向拝 二天門(表) 帝釈天拝殿 二天門裏・手水舎(左側)
幣殿・本殿(胴羽目除く)
[後藤 桂林]「推定」
(後藤縫之助・男)
[加藤 勘造] [加藤 寅之助]
(勘造・子)
[高石 信明]
(四代伊八)
本堂奥院 二天門(裏) 釈迦堂
不明
頭貫:[高沢改之助]「推定」
高石 信明
(四代伊八)
[高石信月]「推定」
(五代伊八)
帝釈天堂胴羽目 東京住の後藤流彫工
*
[金子 光清]
(塔供養図)
[木嶋 江運]
(三車火宅図)
[石川 信光]
(一雨等潤図)
[横谷 光一]
(法師修行図)
[石川 銀次朗]
(多宝塔出現図)
[加府藤 正一]
(千載給仕図)
山本 一芳
(竜女成仏図)
今関 光次
(病即消滅図)
小林 直光
(常不軽菩薩受難図
法華経功徳図 )
加藤 寅之助
(法師守護図)
手水舎(境内右側)昭和初期の建立
*
帝釈天堂胴羽目と拝殿(大正から昭和初期に活躍)の彫工関係者のように想われる。

「石川信光・金子光清・後藤義光の門人系統の彫工達」

※祖師堂(本堂)の彫物を担当した[後藤桂林の門人]は一人も居ない。
*
※は胴羽目も担当
[石川 信光] 後藤 南汀 後藤 橘正義 [木島正夫]
[木嶋 江運]
[池田 信之] [横谷 光一] 天堅 吉正 ※山本 一芳
山本 栄雲 荒川 陶光 山田 俊光 大塚 信孝
客殿廊下・レリーフ調胴羽目彫刻ミニチュア
*
[金子 光清]
(塔供養図)
[木嶋 江運]
(三車火宅図)
[石川信光]
(一雨等潤図)
[横谷 光一]
(法師修行図)
[石川 銀次朗]
(多宝塔出現図)
[木島正夫]
(千載給仕図)
刻銘未発見
(竜女成仏図)
今関 光次
(病即消滅図)
山本 一芳
(常不軽菩薩受難図
法華経功徳図 )
[木島正夫]
(法師守護図)
拝殿と本堂渡り廊下
*
[加藤 正春]
(寅之助・子)
平田角太夫

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