嶋村本流 04.06.11 改訂06.08.03  [社寺名で検索]  [二十四考・その他見立て絵図]  

[日本年号・江戸時代]  [成田山・嶋村俊表について]


本流
*
元祖嶋村俊元 二代嶋村圓鉄 三代嶋村俊実
円鉄・門人
(唐四郎):幕府御用勤
四代は松五郎
俊実・男
(死後形式的に源蔵名跡)
行年二十二歳
五代嶋村俊準
俊実・門人
(源蔵後に唐四郎)
:幕府御用勤
六代嶋村俊規
俊準・男
御用勤外れ
(源蔵):見延山彫刻行脚
七代嶋村俊矩
俊規・男
一般宮大工付き合い無し
(源蔵):見延山彫刻行脚
八代嶋村俊表
(源蔵)

嶋村俊正
(留五郎)

俊規・弟、俊縄(源六)の子
二十歳過ぎ、石原流で修行
八代名跡を競い合う
名門嶋村家の復活
九代嶋村俊豊
俊表・男
(源蔵):作は少ない
十代唐四郎の出現、孤立
十代嶋村俊明
俊準・二男
(唐四郎)
行年四十二歳
吉田芳明
俊明・門人
吉田芳夫
芳明・男
嶋村俊準
俊正・門人
(文治郎)
吉田白嶺
俊明・門人
門人
*
嶋村延実
二代圓鉄・門人
嶋村貞亮(市東半平)
三代俊実・門人
嶋村伊三郎
府中嶋村系
(現茨城県石岡市)
嶋村道友
八代俊表・門人
(後に中村交文と改)
その他嶋村系
*
[常州府中嶋村系] [香取郡嶋村系彫工] [波の伊八ウェブ美術館] 嶋村流系譜へ

嶋村本流について

江戸彫工の祖、嶋村俊元(万治・寛文頃の人)から派生  [社寺名で検索]
源蔵と唐四郎が世襲名跡銘、実子及び兄弟親戚筋は源蔵。(六・七・八・九代は源蔵が続く)
門人及びその子が名跡する場合は唐四郎。(三・五・十代は唐四郎)

寛政・文化時代頃より後藤流の隆盛で御用勤(霊廟修復)を外れ嶋村家存亡の危機。
六代俊規の時から御用勤(官工)は東都後藤家に移り、今まで一般の宮大工と付き合いはなく、
七代俊矩の時まで仕事が無いので六・七代親子で身延山へ彫刻行脚に出ている。

六代源蔵俊規の弟俊縄(源六)は二人の子、俊正(兄)と俊善(後に俊表)を※01>他流へ修行に出す。

修行終了以後(天保頃)、俊正・俊表から嶋村流は今までの構図・作風が大きく変更。
この兄弟は※01>何処で修行したのであろうか。[嶋村流八代以降の構図と作風]

※01>構図・作風は[石原流](師匠は、[飯田仙之助]であろう)
時代的なことと、飯田仙之助の倅・飯田岩次郎が嶋村俊表の後に氷川神社・本殿の彫刻をする。
[箭弓稲荷神社・拝殿] (東松山市)は飯田仙之助の作であるが嶋村俊正の扁額あり。

古い嶋村流を継承してきたのは
[常州府中嶋村系][香取郡嶋村系彫工][波の伊八・五代]

名門嶋村家復活

八代俊表・俊正、九代俊豊、十代俊明が武州・下総・香取郡・上総地区で活躍する。


06.08.03

氷川神社本殿は八代俊表と飯田岩次郎が彫刻しており刻銘・資料がある。
岩次郎は飯田仙之助の子で仙之助は名人初代石原丈八の門人である。
なぜ飯田岩次郎なのでしょう、俊表が少なからず石原流(飯田家)に関係していると観ました。


07.07.04

最近、[秩父三十四番観音札所]へ参拝。
飯田系の作品を多く拝見、嶋村八代からの構図・作風と酷似。
上記の飯田岩次郎と相通じるものがある。
[岩本山・常泉寺](秩父市山田)頭貫・飯田和泉・・・資料


氷川神社・本殿の彫刻構成様式と職人構成から[飯田家]で修行したと観て差し支えないと思う。
後藤流と少し違いがあるのも納得できる。


九代名跡で分裂、俊表実子・俊豊(幼名は万吉)と俊表の兄俊正門人・俊準。
九代源蔵俊豊は俊表の実子(幼名は万吉、成人本名は俊弟)が名跡。

八代源蔵俊表 →嶋村道友(俊表門人) →九代源蔵俊豊(俊表実子)
嶋村俊正 →嶋村俊準(俊正門人) →十代唐四郎俊明(俊準二男)


十代唐四郎俊明は俊準の二男(明治四年、十六歳頃)が名跡、若くして俊才の誉高い。

[伊弉子神社]九代源蔵嶋村俊豊の刻銘には驚きである。
石川、長谷川と連名で刻銘がある。
(十代唐四郎嶋村俊明の名跡で九代俊豊は本流から孤立していたと想われる)

[06.08.11雑記]
*
[上へ]

嶋村流系譜

情報が乏しくこの系譜は新しい情報が入り次第更新される。
(管理人の独断で更新しているので参考程度に願います)

延実
(圓哲門人)・甚八
→守実
(延実男)・太郎八
後甚八と改
諸国経歴
信道
村井正俊門人
草間喜重郎
上総産
後に新三郎改
中村乗保名跡
→広茂
(圓哲門人)・藤助
鷲子山上神社・本殿
(とりのこやまがみ)
美和村鷲子3627
天明八年(1788)
彫物棟梁同村
石原藤助
*                              [上へ]
01 02 03 04 05
元祖嶋村俊元
村井正俊門人
嶋村八郎右衛門
東都産
万治寛文頃の人
(1658-1672)
二代嶋村圓鉄
通称・八郎右衛門
勝八入道
無関圓鉄
名人ナリ
元禄頃の人
元禄元年(1688)

享保五子年(1720)
五月八日没
三代嶋村俊実
(としざね)名人
(圓哲門人)
(三代嶋村唐四郎)
甚八舎弟
この頃から幕府御用勤
と想われる。
神田紺屋町住

宝暦七年(1757)
五月二十二日没

最近、鴨川の某神社
に於いて作が
発見された。
(年代は管理人説)
四代は俊実男
松之助(幼名)
宝暦五年(1755)没
行年二十二歳
(没後四代嶋村源蔵
を形式的に名跡したと想われる)

故に五代目は名跡名を
唐四郎変更している。
五代嶋村俊準
(としのり)
(源蔵、後五代唐四郎)
(俊実門人)
俊実実子松之助若死
嶋村家相続
心門院様御廟御用勤
日光山修復御用勤

明和・安永・天明の頃
(1764~1789)

※この相続に
異を唱えるのが
[三代目後藤正常]

[龍本寺・本堂]
(横須賀市深田台)
→俊済
俊元姪
嶋村吉兵衛

八幡神社
(つくば市吉沼)
貞享二年(1685)
彫物師 江戸
嶋村吉兵衛
→智治
(俊実門人)
東都産
平左衛門
※推定
→半之丞
松尾

[白子神社・本殿]
宝暦八年(1758)
貞亮
(俊実門人)
市東半平
丈右衛門
上総産

元文三年(1738)生
→武志伊八郎信由
波の伊八
下打墨住(鴨川市)
(丈右衛門・門人)
[波の伊八ウェブ美術館]
[嶋村清兵衛]
勝浦住
(丈右衛門・門人か後継)
常州府中嶋村系 [上へ]
→籐九郎
(圓哲門人)
常州府中住(石岡市)
谷(屋)口籐九郎

真光寺・
阿弥陀堂・宮殿
(新治郡八郷町部原)
享保十六年(1731)
*
→満命
(圓哲門人)
野州富田住
浦田八郎右衛門

鹿島神社・本殿
(八郷町)
宝永二年(1705)
*
→甚七
(圓哲門人)
常州府中住
岡野甚七

今宮神社本殿(岩瀬町)
享保十三年(1728)
高田神社本殿
(江戸崎町)焼失
享保十七年(1733)
→甚内
(甚七男)
常州府中住
嶋岡陣内

雷神社・本殿(下館市)
安永五年(1776)
常陸国府中住人
→甚次郎
(甚内男)
後八郎右衛門改
常州府中住
嶋村伊三郎忠友
(府中産)

寛政三年(1791)
・享和元年(1801)作あり
[香取郡彫工系譜へ index]
→前林善右衛門

→竹内山幸


(圓哲か三代俊実
門人と想われる)

[香取郡彫工ファイル]
*嶋村六代から             [上へ]
06 07 08 09 10
※後藤流の台頭で
六代俊規の代から
御用勤を外れる。
五代茂右衛門
後藤正綱から
後藤流が御用勤とナル
(彫物官工)
※流派危機的状況 ※構図(下絵)が大きく
変更。
※下絵・作風は
石原流に近い。
六代嶋村俊規
(としのり)
(五代俊準男)
(六代嶋村源蔵名跡)
寛政・文化・文政

弘化元年(1844)辰
十二月六日没
(年代は管理人説)
七代嶋村俊矩
(としかね)
(俊規男)
(七代嶋村源蔵?)

父と共に身延山
諸堂に彫刻
名跡年代は
天保前期頃までか ?

安政元年寅(1854)
十一月二十日没
八代嶋村俊表
(としあき・としよし)
本流親戚筋から襲名
俊縄・次男
(八代嶋村源蔵名跡)
神田川住

※名門嶋村家復活
の立役者

文化五(1808)年生
文久三亥(1863)年
十一月十五日没
行年五十五才

作は天保年間後期~
文久三まで。
九代嶋村俊豊
(としあつ)
(俊表実子)・万吉(幼名)
本名:嶋村俊弟?
(九代嶋村源蔵名跡)

川越仲町(旧志義町)
の山車彫刻(文久二)
岬町に神輿あり、
九代俊元孫と刻銘。

伊弉子神社には、
他流と連名で
源蔵の刻銘。
本流から孤立。
[伊弉子神社]本殿
向拝蟇股裏に
「同 ○蔵○一」は
ダレなのだろう

→末裔は埼玉県住
* ※俊表・俊正は
他流で修行したと
推測する。
(構図・作風の激変)
道友
(俊表門人)
後に中村交文と改名
浅草(明治二十六年)
から下総公津村住

主に上総で活躍

天保四年(1833)生
明治三十二年(1899)
作あり。
→忠栄
俊準門人
東都産
松沢金平衛
嶋村俊正
(としまさ)
刻銘から本流親戚筋
俊縄・長男
(嶋村留五郎)
神田川住
明治の作に墨書きで
登場する。

※名門嶋村家復活
の立役者
嶋村俊準
(としのり)
俊正門人
(嶋村文治郎)
七代俊矩の娘婿

明治五年(1872)没
十代嶋村俊明
(としあき)
俊準次男
(十代嶋村唐四郎名跡)
東都神田川住

木彫と牙彫に俊才
東総地区に作品点在
明治四年(1871)
十六歳時
回行院(両国)に彫刻
この頃唐四郎名跡

安政元年(1854)生
明治二十九年(1896)没
行年四十二歳
→俊均(クサかんむり)
(としただ)
俊準門人
相州長谷住
武井東蔵
→小野寺俊泰
(文治郎俊準・門人)
→民陸
俊準門人
東都産
和田長重郎
※文治郎俊準
七代 俊矩の娘婿で
留五郎俊正の弟子
俊縄
(としつぐ・としつな)
(五代俊準二男)
(嶋村源六)
→俊正(としまさ)兄
嶋村留五郎

→俊善(としよし)弟
八代嶋村源蔵・藤原俊表(としあき)
俊表という名は職名

※兄弟共に他流で修行
※九代相続には俊表実子・俊豊と
俊矩娘婿・俊準とでまた問題発生。
※俊表の墓が発見された。[北区・大松寺]
※俊表(本名俊善)と俊正は刻銘から共に
俊縄の子・兄弟の可能性が強い。
※八幡神社(岬町榎沢)刻銘に八代末孫とあり、
俊正には孫の刻銘は発見されていないので、
俊表が次男、俊正が兄と想われる。
当然八代源蔵の跡目争いがあったのでしょう。
*11 12
吉田芳明
俊明門人
俊明娘婿
八象庵
昭和二十年
(1875-1945)
吉田芳夫
(1912-1989)
昭和十一(1936)年
東京美術学校
塑像部卒
吉田白嶺
俊明門人
(1871-1942)
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嶋村家名跡名の付け方(参考)

きくじゅんじょう 1 【規矩準縄】 (五代俊)・五代俊準長男(六代俊)・五代俊準(次男俊)
・六代俊規長男(七代俊)・七代俊矩娘婿(文治郎俊)

〔「孟子(離婁・上)」(リロウ)より。・・・伝説上の人物。孟子の「章句名」となっている。
「規」はコンパス、「矩」はさしがね、「準」はみずもり、「縄」はすみなわ〕行為や物事の規準。
法則。手本。規則。  [大工道具]・・・[日本・中国の文様辞典]

【表】 [画数]8画
-常用漢字
[区点]4129 [JIS]493D [シフトJIS]955C 
[音訓]ヒョウ・あらわす・あらわれる・おもて
[名乗り]あき・あきら・うわ・お・おも・きぬ・こずえ・すず・と・よし


八代以降はどうなのだろう?

・俊・俊・俊


06.11.24 形端表正

形端表正(けいたんひょうせい)
「かたちただしきときはおもてもまたただし」

自分自身がいつも形を正していれば、映る影も同じように端正にみえるものであって、
行いさえ正しければ、他からの影響で曲げられることはない。

『三体千字文 小野鵞堂 書』 解説は『千字文講義』より

嶋村家の訓読み
*
1.俊元(としもと) 2.圓鉄・円哲・延鉄
(えんてつ)音読み
3.俊実(としざね) 4.松之助(幼名) 5.俊準(としのり)
6.俊規(としのり) 7.俊矩(としかね) 8.俊表
(としあき・としよし)
9.俊豊(としあつ) 10.俊明(としあき)
俊縄(俊規の弟)
(としつぐ・としつな)
留五郎俊正
(俊表の兄)(としまさ)
文治郎俊準
(としのり・俊正門人)
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吉田芳夫(1912-1989)・・・芳明・倅 1936年東京美術学校塑像部を卒業。

1938年第13回国画展に『農婦木彫原型』を出品し、初入選、K氏賞を受賞。
翌年、同志とともに、新制作派協会に合流、彫刻部を創設。
ここを拠点に、制作活動を展開することになり、1976年に出品した『白道』で、
日本の具像彫刻の分野では最高の栄誉である中原悌二郎賞を受賞し、名実ともに高い評価を受けました。
*
[本學山 妙壽寺](世田谷区北烏山5-15-1)[地図]
「寺寶」
[鴨川市民ギャラリー]
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吉田芳明・・・(1875-1945)俊明門人 俊明娘婿 八象庵 昭和二十年没

十代俊明の娘婿として家業を継ぎ、
牙彫の他、宮彫師の造形感覚で斬新な木彫を制作
*
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吉田白嶺(1871-1942)・・・俊明門人

彫刻家。東京生。
独学で彫刻を初め、東京彫工会・日本美術協会等に木彫を出品、のち日本美術院同人となる。
代表作に『寂静』がある。昭和17年(1942)歿、72才。

(明治4年~昭和17年)木刻家
 東京・本所出身。明治43年、田端155番地に転入。
独学で木彫を修め日本彫刻会に参加。
大正3年から再興美術院展を活躍の場とし、同人に推される。
鹿島龍蔵、芥川龍之介らとともに「道閑会」の常連メンバー。

再興院展木彫の中心の一人として活躍
*
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十代嶋村俊明(唐四郎)

嶋村俊明: 俊準二男(嶋村唐四郎)木彫と牙彫に俊才。
安政二年(1855)十月~明治二十九年(1896)十二月没 谷中墓地に葬る 行年四十二才。

十六歳時「明治四年(1871)」、小野寺俊泰(嶋村文治郎門人)の後見にて
両国回向院本堂の欄間に十六羅漢を彫刻するが、戦災焼失。
このことにより、十代唐四郎名跡はこの頃と推察する。

管理人は子安神社(茂原市腰当)の拝殿向拝・堂廻り頭貫獅子を十代嶋村俊明と推定する。

高野神社(山武市飯堰)の本殿と隣の境内社も嶋村俊明作。
特に本殿は彫刻づくしの大作、二十四歳頃の作です。

[嶋村俊明の作風]  [嶋村流八代以降の構図と作風]

十代唐四郎俊明の刻銘、成田山新勝寺・額堂・奉納額刻銘

十代唐四郎俊明は殆どの社寺で刻銘はしていない。
したがって作風を理解していなければそれと判断出来ない。

刻銘・資料等あり
*
回向院(墨田区両国)
明治四年(1871)
新勝寺・額堂・奉納額(成田市)
「推定」・・・刻銘・資料等が無く、管理人独自の判定
*
芝山仁王尊・仁王門(山武郡芝山町)「推定」
明治十五年(1882)完成
子安神社(茂原市腰当)「推定」
明治十四年(1881)擬宝珠
田無山・総持寺・本堂(西東京市)「推定」
戦災に遭うも彫物は無事避難
天之宮神社(小見川町)「推定」
熊野神社(銚子市正明寺町)「推定」 左右大神・境内八幡神社(東庄町船戸)「推定」
高野神社・本殿・境内社(山武市飯堰)「推定」
明治十二年(1879)完成
日本寺・妙見堂「左堂」(多古町南中)「推定」
八坂神社・手水舎(八日市場市小高)「推定」 琴平神社(銚子市中嶋)「推定」
万力水神社(干潟町万力)「推定」
明治六年(1873)改築
稲荷神社(干潟町万力)「推定」
明治六年(1873)境内拡張
神門神社・扁額(佐倉市神門)「推定」 十二天宮・向拝(御宿町実谷)「推定」
[正覚寺] (香取郡多古町島)「推定」 和田山不動堂・頭貫・波切不動堂
(銚子市植松)「推定」
情報
*
成田山・額堂・奉納額 05.03.27

成田山額堂には幕末~明治に掛けての彫工作奉納額を多数観ることが出来る。
額堂周りの彫刻は二代後藤弥太郎を名跡した、[後藤勇次郎]

額堂

 東都神田川住
   彫工嶋村俊元十代孫
       唐四郎俊明○花押 

行年四十二才と短く、この刻銘は本邦初公開。

[全体]
[額縁上]
[額縁下]
[拡大]
[刻銘]
[上へ]
回向院(墨田区両国) 04.05.30

浄土宗、諸宗山(国豊山)。
開創:江戸時代の明暦三年(1657)
阿弥陀如来座像:銅像、原田右京作、江戸時代の宝永二年(1705)
『新全国寺社・仏像ガイド』

[回向院ホームページ]

資料によると明治四年(1871)十六歳時、俊明作の欄間(十六羅漢)は焼け残っているといわれるが、
欄間は存在しないと回向院関係者に言われました。

昭和に建立されたRC造り本堂内に十数体以上の小さな仏像が壁に付いていた。
十二体をUPするがまだ他にも在った、嶋村俊明作かは不明。
牙彫も得意としていたので俊明作の可能性がある。(仏師の作にない宮彫りの特徴がある)

[長禅寺・本堂(内陣欄間)](旭市野中)

[左側]:立像   [右側]:秤を持つ仏像
*
本堂壁掛け仏像と同じ仏像がある。[06]

ここの本堂・間仕切り欄間は十代俊明の叔父にあたる
[嶋村俊正]作品である。
*

[本堂]
[力塚]
[相撲部屋]
本堂壁仏像
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
本堂壁仏像
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06][右側]長禅寺
芝山仁王尊・仁王門・(山武郡芝山町) 03.03.12

[芝山仁王尊 観音教寺]

明治十五年(1882)再建完成

04.01.31

文治郎俊準・十代俊明・俊表門人道友が考えられ、道友が当時上総で活躍している。
館山I彫刻師は仁王門[前・左]と、ある神社の竜の彫物に十代俊明の刻銘があり、
構図・作風が同じと申しておりました。

05.02.04

子安神社(茂原市腰当)の向拝親子竜が芝山仁王尊・仁王門羽目板(正面右)に似ているので
確認をするためまたまた参拝する。

羽目板前後左右は四枚とも十代嶋村俊明に相違ないと確信した。
正面左の竜と右の子竜は同じ作風であり、
後側左右二面の竜も正面右の親竜と同じである。

芝山仁王尊・仁王門[前・右] 子安神社・向拝竜[親子竜]・・・比較してみよう
*
仁王門

[全景]

[懸魚]

[中備]
仁王門外側

[前]

[左側]

[右側]
羽目板竜

[前・左]

[前・右]

[後・右]

[後・左]
仁王門中

[欄間左]

[欄間右]
仁王門外

[前・左]

[前・右]

[後・右]

[後・左]
芝山仁王尊・仁王門 04.08.17

[前・左] [左顔拡大] [入り口レリーフ調・右01]が嶋村俊明の構図(子曳き竜)によく使われる。

鼻の高さ・頭と下唇の渦巻きに特徴アリ。
*
手水舎

[全景]
[懸魚]
[木鼻左]
[右]
[後01]
[02]
仁王門
竜の
羽目板
[左顔拡大]
[右拡大]

仁王門左入り口
扉の竜
レリーフ調
[右01]
[右02]
[左01]
[左02]
[年代]
仁王門
左頭貫

[01]:獅子
[02]:獅子
[03]:獅子
[04]:カイチ
仁王門
左頭貫

[05]:カイチ
[06]:獅子
[07]:獅子
[08]:獅子
仁王門
右頭貫

[01]:獅子
[02]:獅子
[03]:獅子
[04]:カイチ
仁王門
右頭貫

[05]:カイチ
[06]:獅子
[07]:獅子
[08]:獅子
[上へ]
子安神社(茂原市腰当)拝殿 05.02.20  詳細追加は[上総地区・子安神社へ]

由緒沿革は不詳だが、天徳(957~961)・応和(961~964)年間の創建と伝える。
本殿は覆屋で古そうだが、拝見不可。

拝殿登り勾欄擬宝珠に明治十四年(1881)の刻銘あり。

拝殿向拝廻りの構図・作風は十代嶋村俊明。

[嶋村俊明の作風] 芝山仁王尊・仁王門

芝山仁王尊・仁王門[前・右] 子安神社・向拝竜[親子竜]・・・比較してみよう

[拝殿]
[向拝]
[左から]
[懸魚]
[中備]
[拡大]
[親子竜]
[拡大]
[左から]
[裏側]
[木鼻左]
[獅子]
[木鼻右]
[獅子]
[虹梁左]
[虹梁右]
頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
[07]
[08]
[09]
[10]
[11]
[向拝中]
[擬宝珠]
左↓
[板蟇股]
右↓
[板蟇股]
手挟
[左]
[右]
子安神社・手水舎 05.02.20

廻り四頭の木鼻獅子は盗難に遭い、新しく作り直されている。

彫工は[長谷川寅五良]と云われているが、管理人は木鼻を拝見していないので判りません。

[全景]
[蟇股]
蟇股
[左]
[右]
子安神社(茂原市腰当) 拝殿 追加画像 05.02.27

拝殿擬宝珠に明治十四年の刻字

管理人推察

向拝廻りは嶋村俊明

拝殿懸魚
[拡大]
向拝蟇股
[親子竜]
[子竜]
向拝木鼻
[左・正面]
[左・左から]
[左・右から]
[右・正面]
[右・左から]
[右・右から]
頭貫木鼻
[向拝]
[左01]
[左02]
[左03]
[左04]
[左05]
頭貫木鼻
[右01]
[右02]
[右03]
[右04]
[右05]
[上へ]
高野神社・境内神社(稲荷神社と阿夫利神社があるがどちらか不明) 04.05.07

高野神社本殿より小さく厨子の様だが、彫刻は満遍なく付いていて上手である。

向拝竜・木鼻獅子の作風:嶋村唐四郎俊明

高野神社・本殿(山武市飯堰)「推定」・・・嶋村唐四郎俊明

[向拝正面]
[左から]
[右から]
[向拝竜]
[向拝柱・左]
[右]
[胴羽目・左]:黄石公、張良
[胴羽目・後]:大江山登拝
[胴羽目・右]:玉巵弾琴
[脇障子・左]:獅子の谷落とし
[脇障子・右]:獅子の瀧浴び
[妻側・左]
[妻側・上左]
[上右]
[上へ]

九代・俊豊・・・八代俊表実子。(幼名は万吉)九代源蔵嶋村俊豊を名跡。

文久二年(1862)、父俊表と共に川越で仕事をしているが、その翌年十一月十五日勝浦で父俊表は亡くなる。

房総夷隅郡長者町の寺院に俊豊の作品があるらしい。

俊豊は嶋村源蔵を刻銘しているので、九代源蔵嶋村俊豊と考える。

明治四年頃、十代唐四郎俊明が名跡以降、俊豊は嶋村本流から孤立していく。

※川越市の寺院建築調査において、嶋村万吉俊弟 文久年間の刻銘あり。

幼名:万吉、本名:嶋村俊弟
九代嶋村源蔵の職名が(藤原)俊豊


したがって文久二年には九代嶋村源蔵を名跡していたが、
当時は父・八代嶋村源蔵が存命なので、仲町山車彫刻には東喜齋と刻したのであろう。

[嶋村流八代以降の構図と作風]

刻銘・資料等あり
*
仲町山車彫刻(川越市)
文久二年(1862)
伊弉子神社・本殿(茂原市)
嶋村・石川・長谷川の連名
「推定」
*
田無神社・手水舎(西東京市)「推定」
仲町 羅陵王(江戸神田の仲秀英・文久二年)・県指定 04.10.16

旧志義町、山車も文久二年(1862)、壬戌(みずのえいぬ)

台輪欄干羽目板の刻銘

   文久二年歳次壬戌秋九月吉日 
 江都   彫工
        東喜齋
         島村俊豊○=花押

04.10.16拝見

山車と中高欄
[全景]
[破風の懸魚]
[中高欄01]
[中高欄02]
台輪欄干羽目板
[左]
[後]
[後の刻銘]
[右]
[上へ]
伊弉子(いさご)神社(茂原市渋谷)・拝殿 05.02.17

彫工不明だが、[大木茂八]に見える

[拝殿]
[向拝]
[懸魚]
[中備]
蟇股
[飛竜]
[拡大]
[裏]
木鼻
[左]
[右]
虹梁
[左]
[右]
虹梁
蟇股
[左]
[右]
伊弉子神社・本殿 権現造り 05.02.17

神社名鑑によると仁寿・貞観(851~859)年代の創始・現社殿は嘉吉年代(1441~1444)とあるが
それほど古いように想えない。

大正三年に合祀大祭が行われている。
下記刻銘は幕末から明治に活躍した彫工。
現本殿再建は明治初期と想われるが明らかではない。

本殿向拝蟇股裏に[刻銘][裏の刻銘拡大]あり。[拓本]

   東都神田川住

    嶋 村 源 蔵 俊 豊

    同   ○ 蔵 ○ 一

    石川文治郎 ○ 信

    長谷川紹○郎國光

○蔵の○に相当する名跡者は
五代嶋村俊準の門人に 相州長谷住・武井東蔵が居る・・・、東蔵重一?
俊豊の倅であればまだ幼名なのか、成人していれば「俊」が付くハズであるがそれではナイらしい。
石川文治郎廣信? 長谷川紹次郎國光?

達筆にて解読困難。
向拝木鼻竜の構図は下記の[八代俊表作・八幡神社](岬町榎沢)と同じである。

06.08.11

ここの刻銘を見る限り九代俊豊の同門が一人と他流が二人になっている。
嶋村宗家には他に何人か門人が居たハズであるから、九代源蔵俊豊は本流から孤立していたのか。

明治四年に十代目唐四郎俊明が十六歳(明治四年)で回向院(両国)の欄間(十六羅漢)を彫刻している。
伊弉子神社・本殿の彫工は十代俊明が唐四郎を名跡した後の職人編成なのであろうから、
本殿は明治初期頃(四年以降)の再建であろう。


伊弉子神社・本殿、連名の刻銘から 09.06.20

この連名の刻銘は非常に興味深い。
嶋村家は六代俊規の時幕府御用勤を外され五代茂右衛門後藤正綱に鞍替えされており
東都後藤流とは相容れない関係にある。
(その後、東都後藤流の悲劇は始まるのだが・・・)[東都後藤家名跡の悲劇]

[嶋村本流について]
上記管理人の推論で理解出来ると思うが、
八代俊表と俊正兄弟は本流の凋落を憂い石原流の飯田家で修行する。
兄弟で八代源蔵名跡を競い合う。

石川周信を祖とする石川家は元々石原流であり、
後藤流となるのは三之助信光に後藤銀次朗が婿入りしてからである(明治中頃)

興味を惹くのが長谷川の刻銘である。
長谷川の出自は何流なのか今まで不明であったがココで[石原流]を確信した。
以前、成田山釈迦堂内陣欄間を施工した[長谷川権頭藤原政義]作の[妙見神社] (香取郡多古町)
を拝見したとき木鼻獅子が[十代唐四郎嶋村俊明]によく似ていたことを思いだした。

九代源蔵嶋村俊豊は明治期本流から孤立していたが、
仕事は同流の職人を使っていたのには納得しました。


[06.04.06伊弉子神社・本殿参拝へ]

本殿
[左]
[妻側]
[右]
[妻側]
向拝
[右から]
[蟇股左]
[蟇股右]
木鼻竜
[左01]
[左02]
[右01]
[右02]

[左]
[右]
小脇板
[左]
[右]
脇障子
[左]
[右]
頭貫
木鼻
[01]
[02]
[03]
[04]
手挟
[左]
[右]
板蟇股
[左]
[後]
[右]
[上へ]

八代・俊表・・・(嶋村源蔵) 神田川住 名人(管理人の評価) 文久三年(1863)年十一月没 五十五歳[大松寺]

文化五年(1808)頃生誕、八代源蔵名跡は三十四.五歳頃
「天保十三年(1842)氷川神社・本殿再建鍬入れ」

俊表の代から嶋村本流の構図・作風が大きく変更しているので、
俊正・俊表兄弟は他流(石原流)で修行した形跡がある。

氷川神社・本殿の彫刻構成様式は二代石原常八の[愛宕神社・本殿](野田市)と酷似。


八代源蔵襲名の経緯(管理人推測)

*天保十三年(1842)頃、八代嶋村源蔵を名跡して俊表を名乗るのだが、
「八代嶋村源蔵俊表銘」の初見は[氷川神社本殿]であろう。
氷川神社本殿彫刻には七年の歳月を掛けて川越に居住していたので、
次の作は嘉永年間からになる。
嘉永年間の俊表作で解っているのは

[前橋東照宮・拝殿](前橋市大手町)嘉永年間(1848-1853)
[諏訪神社・拝殿](千葉市長作)嘉永年間(1848-1853)
稲荷神社・本殿(川越市木野目)「嘉永五年(1852)」

前橋東照宮・拝殿(向拝蟇股・木鼻竜)、長作の諏訪神社・拝殿(向拝竜・木鼻見返り獅子)なので
各々それほど月日は掛かっていないと想われる。

内谷一乗院・本堂(さいたま市南区内谷3-7-12)が嘉永年間の作か?
としても欄間のみなので、それほど月日は掛かっていないと想われる。

一般的に彫刻師は十歳頃から修行を始め、二十歳頃職人として独立するのが普通である。
俊表(俊善)が二十歳頃の年代は文政十一.二年(1828-29)頃で
二十歳から八代嶋村源蔵(天保後期名跡)を名跡するまで十五年間のブランクがある。
十五年間も本流の下手使いをしていたのであろうか。
しかも、嶋村流下絵の構図は八代源蔵(俊表・俊正)から大きく変更されている。

<管理人の推測は>

六代俊規から御用勤(五代茂右衛門後藤正綱が新規御用勤受)を外れた嶋村家を憂い、
六代源蔵嶋村俊規の弟俊縄(嶋村源六)の子二人は、
二十歳を過ぎ兄弟(俊正・俊善)は嶋村家復活のため、石原流へ修行に入ったとしか考えられない。
文化・文政頃は東都後藤流が隆盛で今までの古い嶋村流の下絵(構図)では通用しないと考えたのでしょう。

※この頃、[香取郡彫工]にも構図の変化が観られ、
特に[鈴木市右衛門鶴鳴]の作風の変化や[倅の多門豊賢][後藤安五良常善]の門弟となっている。

他流で修行する場合、十年経たないと年季が明けずもう一年のお礼奉公もありうる。
したがって、天保後期の八代源蔵名跡はつじつまが合う。

嶋村俊表と俊正は名門嶋村流復活の立役者である。

**********

山倉大神玉垣欄間に「上総柴山 嶋村俊表」と刻銘、長期滞在していた形跡の刻銘あり。

[勝浦屋台彫刻]・口伝と推測
*
<口伝>

「勝浦の屋台彫刻制作に嶋村俊表が六年間勝浦在住の記録あり。」

※管理人は嶋村俊正の間違いと思っているが、下記で検証する。
嶋村俊正は年季明けを想わせる奉納額が天保十二年(1841)[箭弓神社・拝殿]にあり。


<嶋村俊表が六年間勝浦在住の記録>

「これは物理的につじつまが合わない。
しかも俊表作の屋台彫刻は上本町の脇障子二枚しか発見されていないのである。
六年間で脇障子二枚では説明がつかないでしょう」

可能性があるとすれば、近隣の社寺を施工するに辺り、
勝浦に逗留滞在していたのではないか。
嘉永二年に遠見岬神社の造営が始まっており、嶋村家が彫刻施工することになっているので
下記の社寺に近い勝浦を本拠地としたのであろう。
***

<管理人の推測>

もしそうなのであるのであれば、
安政六年の成田山新勝寺・本堂扉(二十四考)・山倉大神・本殿玉垣(二十四考)
・八幡神社・拝殿(岬町榎沢)等上総近隣の仕事をしている時と考える。
六年間在住といっても現場の仕事ですから、
帰ってくるのは盆・暮れ正月くらいなモノで滞在の礼は彫物(小品)しか出来ない。

他に勝浦に来たことが解っているのは文久二年(1862)に川越での仕事の目鼻が付き
残務を倅の俊豊に任せ(山車彫刻の刻銘は嶋村俊豊)、
遠見岬神社造営中の勝浦に弟子の道友と移住するが、同三年十一月に急死する。
この時はすでに遠見岬神社造営が始まっており、
その仕事のために門人の道友と連れだって勝浦に来たと想われる。
神社の仕事の手始めに上本町の脇障子を彫刻した後、急死したと考えます。

勝浦での俊表作は個人蔵の小品が数点発見されているが、
勝浦屋台三臺の彫刻は上本町の脇障子二枚(三国志)以外発見されていない。
この二枚は文久三年の作であろう。

下記の如く単純に施工した社寺の年代とを合計しただけでも
勝浦に於いて六年間も屋台彫刻に関わっている時間はないのである。

或る研究者の嶋村俊表贔屓による希望的な観測と云う他はない。
*
遠見岬神社は俊表の死後、
門人の嶋村道友「拝殿向拝竜裏刻銘・元治元年(1864)」によって竣工する。
*

勝浦の屋台彫刻三臺は箱蓋に天保十五年(1844)の墨書があり、
当初から担当した嶋村俊正の作品が殆どで、明治になると嶋村道友等が追加している。

天保末期から七年間、嶋村俊表は氷川神社の彫物に掛かりきりで
その後の作は嘉永年間からになる。
*

[嶋村流八代以降の構図と作風]

**********

<諏訪神社・拝殿(千葉市長作)と八幡神社・拝殿(岬町榎沢)両神社の刻銘・刻印で判ったこと>

※嶋村本流は源蔵(親戚筋)と唐四郎(婿・門人)二つの名跡名があったらしい。

※俊表という名(藤原俊表)は職名で、本名は刻印から俊善。(成田山新勝寺・釈迦堂・扉にも刻印アリ)

※ 兄弟両者(俊善・俊正)の刻銘から判断すると浅草神田川住で名前「俊○」は本家と親戚筋の名であるが、
六代嶋村源蔵俊規の弟に俊縄(嶋村源六)がおり、(俊正・俊善)はその子と考えられる。

※七代源蔵俊矩に男子無く、俊縄(嶋村源六)の子、(俊善・俊正)は名跡を競い合ったと云われる。

※天保十三年着工の氷川神社本殿の刻銘に俊表と刻銘されていることから、
この時点では、すでに俊善は八代嶋村源蔵俊表を名跡していたことになる。

※八幡神社(岬町榎沢)と氷川神社(川越市)の俊表刻銘に「末孫」とあり、
暗に「兄孫」が居ることを示唆している。
俊正の刻銘には「孫」の刻銘は発見されていない。
故に俊表は俊縄(嶋村源六)の次男で俊正が長男ということになる。

本名:嶋村俊善、字(あざな):藤原儀明(ノリアキ・源蔵名跡前の職名)

八代嶋村源蔵名跡後の職名は(藤原)俊表

[田無神社・本殿] 安政五年(1858)は俊表の作で有名です。
平成17年7月23日に本殿拝見させて頂きました。

[勝浦市の屋台彫刻(三臺)]
当初、嶋村俊正が彫刻を担当したが、
その後明治時代になると嶋村道友・四代伊八信明・後藤義光・金子光清らが彫刻を追加している。
(俊表作は上本町の脇障子二枚「三国志」が刻銘により解っている)

俊表が勝浦に来た、文久二年には勝浦上・仲・下三町分脇障子三組の木割りは出来ていた。
俊表は遠見岬神社彫刻施工の前に
上本町の脇障子二枚から取り掛かり完成するが、文久三年十一月に急死する。

十代嶋村俊明の作が発見されていないのが不思議なのだが・・・。
俊表の没後、明治初期に十代唐四郎俊明が仲・下本町の脇障子を仕上げるワケだが(管理人推定)、
脇障子の木割りは元々出来ていたので十五.六年の製作年代差はいっこうに感じられない。
(管理人は刻銘のない[下本町・脇障子][仲本町・脇障子]が十代俊明作と思っている)

※詳しくは[勝浦三町屋台彫刻と嶋村本流]・・・真相究明

彫刻の縁がとりもちで西東京市と勝浦市は姉妹都市になっております。

資料より
*
稲荷神社・本殿(覆屋)
(川越市木野目1162)[地図]

「棟札」
嘉永五年(1852)
大工棟梁は惣滑谷粂造、小工は篠沢源造・根岸松五郎

(川越市神社建築調査)[夢堀通信]
08.03.04hon
[歴史の町・鎌倉.川越]
調「つき」神社
拝殿・本殿・手水舎・神楽殿
(さいたま市浦和区岸町3-17-25)[地図]
安政六年(1859)竣工
(さいたま市資料)
一乗院・本堂
(さいたま市南区内谷3-7-12)[地図]
(埼玉県資料)
[前橋東照宮]
(前橋市大手町3-13-19)[地図]
[ホームページ]
嘉永年間 [拝殿] 刻銘あり
刻銘・資料等あり
*
[諏訪神社・拝殿](千葉市長作)
嘉永年間(1848-1853)
[成田山・釈迦堂](成田市)
安政六年(1859)
[山倉大神・玉垣](香取郡山田町) [氷川神社・本殿](川越市)最新 06.07.22
天保十三年(1842)本殿再建着工
[八幡神社・拝殿](岬町榎沢) [田無神社・本殿](西東京市)
安政五年(1858)着工、一年で完成
[愛宕神社拝殿扁額](山田町府馬) [稲荷神社・本殿](川越市木野目1162) [地図]
嘉永五年(1852)
勝浦の踊り屋台・脇障子(勝浦市上本町)
文久三年(1863)
置物と御神酒枠(個人・川越市連雀町蔵)
安政三年(1850)
松江町一丁目・山車・高欄羽目板
(川越市)
「推定」
*
[常福寺](山武郡埴谷)「推定」
嶋村俊表作(置物と御神酒枠) 06.07.22

個人蔵の『恵比寿・大黒』置物と川越市連雀町の『御神酒枠』二基

置物の刻銘

 嶌村俊表 圓哲 

恵比寿・大黒は下の裏に刻銘あり。
勝浦に滞在中、世話になったお礼に彫刻したもの(小品)と想われる。
所有者は江戸時代からお米屋とのことです。
[勝浦市の屋台彫刻]


大山講詣でに使用した御神酒枠。『祭りだ ! 屋台だ ! 』大山講の説明有り

連雀町自治会館室内が暗く、ピンボケ了承願います。

[木鼻拡大][十代唐四郎俊明]の木鼻とそっくりである。

御神酒枠(左側・展書)の刻銘

 東都彫工
  嶋村俊表作 花押 

[大山寺](神奈川県伊勢原市)

勝浦住・個人蔵
[恵比寿]
[大黒天]

07.05.19
[恵比寿・大黒]
[大黒・拡大]
[恵比寿・拡大]
[刻銘・刻印]
嶌村俊表・圓哲
御神酒枠
[二基]
[収納箱]
[墨書き]
安政三年
丙辰七月
作之
御神酒枠・左
[正面]
[左]:展書
[左・刻銘]
[後]
[右]:不明
[木鼻拡大]
御神酒枠・右
[正面]
[右]:囲碁
[後]
[左]:玉巵弾琴
[上へ]
八幡神社(岬町榎沢) 本殿・幣殿・拝殿 04.06.26 八幡神社(いすみ市榎沢) 07.05.19最新

資料によると宝暦三(1753)年に社殿を修繕。

灯明石灯籠の石刻は天保九(1838)年八月

拝殿の刻銘は俊表作だが、嶋村家一派の手も見える。
特に頭貫獅子の作風は俊正の系統。

本殿は宝暦年間だと[香取郡の彫工]と想われる。

拝殿向拝蟇股の題材は
武内宿禰に宝珠を捧げる題材は

「正八幡大菩薩」

向拝蟇股裏刻銘

東都彫工
  嶋村俊元八代末孫
     嶋村源蔵藤原俊表○花押

(管理人記)
下記千葉市長作の諏訪神社の刻印で謎が解けたように、
ここの刻銘「嶋村源蔵藤原俊表 花押」でも俊表の職名が裏付けられました。
俊表という名は他の彫刻師もよく使う藤原姓の名でいわゆる職名で本名ではない。

嶋村俊元八代末孫ということは兄孫がいるということです。
したがって俊表は嶋村源六俊縄の次男で俊正が長男と考えられる。

拝殿向拝蟇股:「正八幡大菩薩」

「武内宿禰が竜宮の使いから宝珠を賜る」場面。
「神功皇后と武内宿禰」の場合もある。

拝殿
[鳥居]
[年代]
[正面]
[左から]
[本殿含む]
[右から]
拝殿向拝
[正面]
[左から]
[右から]
[額]
[欄間・左]
[欄間・右]
拝殿懸魚
妻側大瓶束

[懸魚正面]
[左妻側大瓶束]
[右妻側大瓶束]
[後]
拝殿向拝
[大瓶束]
[人物正面]
[拡大]
[裏]
[刻銘]
拝殿木鼻

[左]
[角度替え]
[右]
[角度替え]
拝殿嵌板
[左側]
[右側]
[右側02]
拝殿向拝
[手挟・左]
[手挟・右]
[虹梁・左]
[虹梁・右]
拝殿蟇股
[01]  [02]
[03]  [04]
[05]  [06]
拝殿蟇股
[07]  [08]
[09]  [10]
[11]  [左]
拝殿頭貫
[01]  [02]
[03]  [04]
[05]  [06]
[07]  [08]
幣殿
[後側]
幣殿
[嵌板]
本殿
[左から]
本殿蟇股
[正面]
[左]
[右]
本殿木鼻
[左]
[右]
[手挟・左]
[上へ]
諏訪神社(千葉市花見川区長作) 例祭日10月18.19日 02.11.17

諏訪神社(花見川区長作) 07.02.19・・・詳細拡大画像

幣殿・本殿は天保七年(1836)に再建、香取彫工「島村田宮定直」

嘉永年間(1848-1853)に拝殿を新造、現在の幣殿は昭和四十三年の造築。
八代源蔵嶋村俊表四十才頃の作。

彫刻師は拝殿向拝竜裏に刻銘=撮影画像提供・oguriさん。

東都鐫工
  嶋村俊元八代
    嶋村俊表鐫文○花押
           □□=刻印

埜俊
印善
儀字

[刻印01]ボヤけて読めません、少し鮮明な[刻印02]
刻印上から 「俊善埜印」 「字儀明」 で正解決定です。
判子屋のご教授と管理人が篆書体辞典で調べました。
[俊]  [善]  [儀]  [明]

字(あざな)は儀明(のりあき)で実名諱(いみな)は俊善になります。
ですから八代源蔵襲名前の職名は藤原儀明(のりあき)で実名は嶋村俊善(としよし)になります。

俊表の本名は嶋村俊善(としよし)
俊表という名は本流八代嶋村源蔵に付属する職名(藤原)ということになります。
このことから七代源蔵俊矩は男子無く、同門親戚筋から[八代源蔵を襲名]したことが判る。

また、「俊表=しゅんぴょう」は音読み。
字(あざな)の儀明(のりあき)にヒントがありました、訓読みは「俊表=(としあき)、か、(としよし)」と名乗ります。
管理人個人的には「としあき」ですが、十代俊明と同じなので「としよし」にしておきます。(^^ゞ

諏訪神社拝殿向拝竜裏の刻印で疑問の多かった俊表の姿が少し見えてきました。
自分なりに大発見(本名と初期の職名(字)を解明)と思います。

あざな 0字】

(1)中国で、男子が成人後、実名のほかにつけた名。
実名を知られることを忌(い)む風習により生じ、字がつくと実名は諱(いみな)といってあまり使わなかった。
日本でも漢学者などが用いた。



え・る ゑる 1彫る/鐫る】=堅い物をえぐる、ほるの意
注 鐫は音読みでは「セン」

諏訪神社(花見川区長作) 07.02.19
*
[鳥居] [拝殿] [向拝竜01]
[向拝竜02]
[向拝竜03]
拝殿角度替え
[拝殿刻銘]
拝殿向拝竜裏
[木鼻左]
[木鼻右]
拝殿向拝
見返り獅子
[上へ]
成田山・釈迦堂(国宝) 02.12.23

扉六カ所一二枚 「安政五年(1856)・無関堂 嶋村俊表」 「東都 嶋村俊表謹彫」
四十八才頃の作
扉一枚に二つの物語を彫ってある。[成田山・嶋村俊表について]

[成田山探検隊] 釈迦堂

無関堂とは仏像・神像も手がけた二代嶋村圓鉄の号

[二十四考見立絵]

刻印篆書体画像
[圓]  [哲]

[刻銘]
嶋村俊表

[二十四考]
本堂左扉
[丁蘭・癒黔婁]
[朱寿昌・黄香]

二十四考
[王祥・閔損]
二十四考
[文帝・大舜]
二十四考
[郭巨・揚香]
二十四考
[唐夫人・姜詩]
二十四考
[曾参・孟宗]
二十四考
[呉猛・王褒]
二十四考
[蔡順・剡子]
二十四考
[仲由・陸績]
二十四考
03.03.20

[刻銘] 東都 嶋村俊表謹彫 花押
[刻印] 俊善埜印・・・諱(いみな)実名
[俊]  [善]  [儀]  [明]

二十四考釈迦堂(旧本堂)左廻り(一部不掲載)
*

[01]・・・(王祥、閔損)
[02]・・・(呉孟、王褒)
[03]・・・(仲由、陸績)
[04]・・・(朱寿昌、黄香)
[05]・・・(文帝、大舜)

[06]・・・(郭巨、楊香)
[07]・・・(唐夫人、姜詩)
[08]・・・(曽参、孟宗)
[09]・・・(丁蘭、癒黔婁)
[10]・・・(蔡順、剡子「たんし」)
05.05.07参拝

釈迦堂右回りにて俊表の二十四考を撮影、[09]~[12]は西日で観にくいので
上掲載の[04]~[01]に相当、そちらを参照してほしい。

[01]・・・(田真・田広・田慶、庭堅)
[02]・・・(蔡順、剡子「たんし」)
[03]・・・(丁蘭、癒黔婁)
[04]・・・(董永、老来子)
[05]・・・(曽参、孟宗)
[06]・・・(唐夫人、姜詩)
[07]・・・(郭巨、楊香)
[08]・・・(文帝、大舜)
[刻銘] 東都 嶋村俊表謹彫 花押
[09]・・・(朱寿昌、黄香)
[10]・・・(仲由、陸績)
[11]・・・(呉孟、王褒)
[12]・・・(王祥、閔損)
[上へ]
山倉大神・山田町山倉二三四七番地一 03.03.09

本殿・幣殿・[拝殿・玉垣] 例祭日12月7日

本殿は安永七年(1778)三月五日建立、本殿彫刻は年代から嶋村源蔵五代・嶋村俊準か香取彫工だが
五代俊準は幕府御用につきここに作はない、おそらく[香取郡の彫工]であろう。
K氏によると墨書きでも在ったのでしょうか、香取の山中系とのことです。

本殿玉垣刻銘「上総柴山 嶋村俊表」

上総柴山は今の山武郡芝山であるが、ここに長期居たということの刻銘は
芝山近隣の社寺に嶋村俊表の作がいくつかは在ると言うことだろうか。

成田山新勝寺釈迦堂の扉も二十四考で安政五年(1856)であるが、
その頃ここ柴山に居たのであろうか。


本殿の玉垣二十四考と拝殿脇障子は俊表の作に間違いないが、
玉垣の二十四考は盗難で数枚しか現存していない。

山倉大神・本殿

[鈴木市右衛門鶴鳴]「推定」

本殿

[資料]
[妻側左]
[左]
[妻側右]
[右]
本殿
海老虹梁

[左]
[右]
本殿妻側

[鳳凰]
本殿
脇障子

[左]:楊香
[左裏]
[右]:郭巨
[右裏]
本殿

[犀・右]

[犀・左]
山倉大神・拝殿・玉垣 03.03.09

拝殿脇障子・玉垣欄間

『刻銘』
「上総柴山 嶋村俊表」

[山倉大神・玉垣 新画像]

[拝殿] 拝殿

[中備]
[弾琴]
[横笛]
拝殿

[脇障子左]
[脇障子右]
[手挟み]
本殿玉垣

[右扉・左]
[右扉・右]
本殿玉垣

[大舜・漢文帝]
[刻銘]
[左扉・右]
[左扉・左]
[右扉・左虹梁]
[右扉・右虹梁]
[上へ]
愛宕神社・拝殿(山田町府馬) 05.09.19

扁額は嶌村俊表の刻銘

扁額

[全体]
[上]
[左]
[右]
[下]
[刻銘]
[上へ]
氷川神社・川越市 02.10.20

神社のホームページに本殿彫刻は化政年間(1804~1829)に嶋村源蔵の彫物とあるが、
「川越まつりを学ぶ会」の年表には、現本殿は天保十三年(1842)着工、嘉永三年(1850)竣工とある。
川越氷川神社本殿の彫刻は「東都神田川住嶋村俊元八代孫俊表」と「飯田岩次郎」。

[飯田岩次郎]についてだが、「寄居町文化財調査報告書」によると

「熊谷の河原ケ戸に飯田岩次郎師という彫刻師が居り、
当地方随一の技術者として、多くの作品を残されている。」とあるので、
その飯田岩次郎(花輪村産 石原流)に相違ないでしょう。

「氷川御宮彫注文積帳」には源蔵の署名に「俊規」の印

[嶋村系譜・武志伊八郎系譜]

着工から完成まで約七年の歳月が掛かっているが、
八代俊表は早い時期から本殿の彫刻に携わっており、主要部分の彫物は俊表の作。

俊表の後に本殿彫刻に参加する飯田岩次郎は彫刻する場所が少なく、手間も少なかったようだ。
欄干下持送等獅子が岩次郎作の様に観える。

[最新の氷川神社・本殿正式参拝]・・・06.07.22詳細

[鳥居] [拝殿] [本殿]
左から
[本殿]
右から
[向拝]
本殿左
[本殿]
左側
[胴羽目]
本殿左側
「牛若丸と浄瑠璃姫」
[胴羽目]
本殿後
「鶴ヶ岡」
[胴羽目]
「勿来の関」
[胴羽目]
右側拡大
「勿来の関」
[向拝]
本殿右側01
[向拝]
本殿右側02
[海老虹梁]
本殿右側01
[海老虹梁]
本殿右側拡大
[上へ]
勝浦の踊り屋台 05.09.17

俊表とそれぞれ彫工の彫物はまだあるが代表的なものを載せた。
[勝浦市の屋台彫刻(三臺)]

『樊獪(はんかい)』
劉邦の幼馴染、項羽と互角に戦えるほどの豪傑、鴻門の会で劉邦の危機を救ったのは有名。
「鴻門の会」とは項羽と劉邦の会談で(ハンカイ)は大杯で酒を呑む。


下本町屋台の脇障子(管理人推定:十代唐四郎嶋村俊明)
ケヤキ材の質感が古く見えるのはクルミ油で拭いているのでは?、と考える。

[右]子獅子谷落とし  [上部拡大]  [下部拡大]

上本町
脇障子
嶋村俊表
三国志
[張飛]
[上部]
[下部]
[張飛拡大]
[刻銘]
上本町
脇障子
嶋村俊表
三国志
[趙雲]
[上部]
[下部]
[趙雲拡大]
嶋村俊正
[波に鯉]
人物は
鬼若?
[刻銘]
嶋村道友
三国志
武将
[樊獪]
(はんかい)
四代伊八
高石信明
[波に竜]
後藤義光
[雲に麒麟]
[上へ]
稲荷神社・本殿(川越市木野目1162)

嘉永五年(1852)

八代嶋村俊表

画像は[夢堀通信]様より借用しております。

[拝殿]

[本殿向拝]
本殿胴羽目・左側

[玄武に餌をやる仙人]
本殿胴羽目・背面

[天女・麒麟・鳳凰]
本殿胴羽目・右側

[林和靖]
[上へ]
常福寺(埴谷字宿) 05.02.05

嶋村俊表の作風「推定」

[資料]
[仁王門]
[欄間・左]
[亀・拡大]
[欄間・右]
[亀・拡大]
[上へ]

嶋村俊正・・・(嶋村留五郎)・同門親戚筋なので嶋村俊元八代を名のる。

俊表(俊善)とは兄弟で俊正が兄と想われる。

八代源蔵俊表が川越方面で仕事をしている頃、
俊正は上総地方で数多くの仕事をしている。[勝浦の大型芸屋台]

[嶋村流八代以降の構図と作風]

刻銘・資料等あり
*
[長禅寺]・本堂間仕切り欄間(旭市野中)
資料
[菅原神社・拝殿](勝浦市大楠)
刻銘
[愛宕神社・本殿](八日市場市ロ)
刻銘
[勝浦の屋台彫刻](勝浦市)
天保十五年(1844)・刻銘在り
春日神社
(川越市砂新田140)[地図]
東都彫工 嶋村俊正・・・「川越市神社建築調査」
[歴史の町・鎌倉.川越]
箭弓神社(東松山市箭弓町2-5-14)[地図]
[飯田仙之助]

奉納額:嶋村俊正、天保十二年(1841)
「推定」
*
[天神社・本殿](夷隅郡岬町)「推定」
天保年間、嶋村源蔵の墨書
麻賀多神社(富里町新橋)「推定」
弘化四年(1847)丁未年再建
長禅寺(旭市野中) 本堂 欄間六枚 04.08.01

刻銘「東都彫工 嶋村俊正」・・・『千葉県文化財調査報告書』

内陣左右の間仕切り三枚ずつ、両面透かし彫り彩色有り
[内陣より左側]   [内陣より右側]

[左側01]
[裏]
[左側02]
[裏]
[左側03]
[裏]
[右側01]
[裏]
[右側02]
[裏]
[右側03]
[裏]
[上へ]
菅原神社拝殿・勝浦市大楠476 例祭日10月1日 02.11.23 [最新の菅原神社08.04.12]

神社資料には、嘉永元年(1849)九月新たに造営竣工し現在に至る、とあります。

『千葉県文化財実態調査報告書』より欄間二十一枚、嘉永二年(1850) 二人の工匠名あり

背面欄間「彫工房州住 後藤傳吉郎住兼


向拝竜裏の刻銘は

 江都雕物元祖
 島村俊元
   八代目浅草神田川住
       島村俊正□刻印 

□刻印は「俊正」と読めます。


※欄間の何枚かに手ブレ画像あり、了承願います。

[鳥居] [社殿]
[社殿左]
(日吉造り)
[向拝] [向拝中備] [向拝竜]
[拡大]
(火炎に
親子流)
[木鼻左]
[拡大]
[木鼻右]
[拡大]
[障子右]
(雲に笹・滝
と親子獅子)
[障子左]
(雲に笹・滝
と親子獅子)
[刻銘]
(向拝竜裏)
[刻印]
(同左)
[向拝手挟]
(社殿)
03.03.30参拝・欄間の画像撮り直し

[向拝] 本殿右側
(嶋村俊正作)

[欄間01]

[欄間02]

[欄間03]

[欄間04]
本殿右後
(後藤傳吉郎住兼作)

[欄間01]

[欄間02]

[欄間03]

[欄間04]
本殿左後
(後藤傳吉郎住兼作)

[欄間01]

[欄間02]

[欄間03]

[欄間04]
本殿右側
(嶋村俊正作)

[欄間01]

[欄間02]

[欄間03]

[欄間04]
[上へ]
愛宕神社・八日市場市ロ三九八番地 本殿銅板葺流造一坪 例祭日7月23.24日 02.12.01

本殿は嘉永二年六月(1849)に再建

『千葉県文化財実態調査報告書』より、
本殿彫工 刻銘「嶋村 俊正」 年代は江戸末期・本殿扉に刻印二つ発見、下は「俊正」

村島
正俊


※椿説弓張月は曲亭 馬琴作

馬琴の戯作は一生を通じて大小300種余にのぼるが,
歴史小説の中で最初に手がけたのがこの弓張月である。

源為朝の数奇な運命をたどる一代の起伏を細叙する。
晩年の諸傑作ほどに円熟してはいないが,気魄の強い点ではむしろ後者に優るかと思われる。
馬琴はこれを一期の出世作として,爾後永く江戸の読書界に雄をなした。

[源為朝]・・・葛飾北斎画


[拝殿] [波に竜]
拝殿向拝欄間
[拝殿中備] [本殿] [向拝竜01]
[向拝竜02]
本殿
[本殿扉01]
[本殿扉02]
「源為朝」
[本殿正面]
全体
[扉の刻印]
下は「俊正」
と読める
[本殿障子左]
「牛若丸と
カラス天狗」
[本殿障子右]
「カラス天狗」
[欄干下]
本殿右側
[欄干下]
本殿後左
[欄干下]
本殿後右
[欄干下]
本殿左側
[妻側左]
本殿
[手挟み左]
本殿
[妻側右]
本殿
[手挟み右]
本殿
愛宕神社・拝殿(八日市場市) 05.11.16

石灯籠の年代は「元治二年」(1865)

拝殿の彫工は[香取郡彫工]

石灯籠
[年代]
拝殿向拝
[欄間]
[拡大]
拝殿向拝
[蟇股]
[太平束]
拝殿木鼻
[左]
[右]
本殿
[木鼻]
[上へ]
天神社(夷隅郡岬町)・本殿 04.07.03

『墨書き・天保年間の嶋村源蔵』

八代目嶋村源蔵は天保後期に嶋村俊表(弟、俊善)が名跡している。
俊表は天保十三年以降、氷川神社・本殿(川越市)に於いて七年間仕事をしているので、
その後の作は嘉永年間からになる。

八代源蔵の名跡が決まっていても、氷川神社・本殿が竣工していない時期の作とすれば、
俊表の兄、嶋村俊正と考える、頭貫の作風も俊正に相違なし。

※天保時代の末期に八代嶋村源蔵を名跡したのは弟の俊表(本名:俊善)
八代嶋村源蔵を名跡後は川越氷川神社本殿彫刻。
七年の歳月を掛け完成、この頃の八代源蔵俊表は上総には居ないのである。

氷川神社本殿:天保十三年(1842)着工、現在の入母屋造りに「嘉永三年(1850)竣工」

本殿
[左側]
[右側]
[懸魚]
木鼻
[左]
[右]
脇障子
[左]
[右]
頭貫
[01]
[02]
[03]
[04]
下羽目
[左1]
[左2]
[右1]
[右2]
05.06.12 参拝

脇障子左:「林 和靖」(りんなせい)
脇障子右:「廬敖仙人」(ろこう)

脇障子
[左]:林和靖
[右]:廬敖(ろこう仙人)
木鼻
[左]
[右]
頭貫
[左01]
[左02]
[右03]
[右04]
[上へ]

嶋村道友・・・八代俊表門人 天保四年(1833)生 東京産 元治元年(1864)作品が初見

独立は師匠嶋村俊表の死後、元治元年(1864)三十一歳頃の遠見岬神社から。
嶋村家受であった遠見岬神社は師匠の俊表が急死したため、
急遽弟子の道友が独立して請け負うことになった。

[勝浦の大型芸屋台]

明治十一年頃までは嶋村道友の刻銘。
明治十年代頃から中村交文と改名し明治二十九年には浅草から千葉県下総公津村に移住したようです。

作品は上総地区に点在。

<名前の由来>

信道(草間喜重郎)・上総産(村井正俊門人・俊元舎弟)は新三郎改め[中村乗保名跡]
正徳三年(1713)に高松又八郎とともに芝文昭院霊廟造営に携わっている。
道友のは信道からのモノと推察、後に改名するも同じ中村と名乗る。

(管理人推察)


明治三十二年(1899) 行年六十六歳とあるので
天保四年(1833)生

※公津村は現在の成田市宗吾付近で公津小・京成公津の杜駅が在る。

刻銘・資料等あり
*
[遠見岬神社](勝浦市浜勝浦)
嘉永二年(1849)の造営開始
元治元年(1864)刻銘
[薬王寺](東金市上布田)
明治二十九年(1896)向拝再建
向拝柱・柱巻きに刻銘
[東陽寺・不動堂](大原町岩船)
明治三十二年(1899)行年六十六歳
[光明寺・鐘楼](大原町岩船)
明治三十年(1897)
[肴町屋台彫刻](千葉県佐倉市)
明治二十六年(1893)
「推定」
*
本朝寺(勝浦市勝浦)「推定」 [熊野神社・拝殿](長南町)「推定」
[國勝神社・拝殿](袖ヶ浦市岩井)「推定」 [八幡神社](東金市布田)「推定」
研究の余地有り
*
遠見岬神社・勝浦市浜勝浦一番地 祭礼日9月13日

本殿・幣殿・拝殿
現社殿は嘉永二年(1849)の造営開始である。

遠見岬神社資料によると彫工は

東都 嶋村俊表
門人 道友 印(落款)

向拝竜の奉納者名 勝浦町 数見 萬蔵  元治元年(1864)

嘉永二年(1849)は道友十六歳。
師匠の八代源蔵俊表の仕事であったが文久三年(1863)十一月に勝浦で急死した。
後継に九代源蔵俊豊がいたが、施工していないということは、その器ではなかったのでしょう。
急遽、俊表と随行していた門人の道友が施工することになったのだと考えられる。

俊表の急死、文久三年は道友三十歳この頃に独立したと想われる。
*
[鳥居] [下本町]
参道から望む
[拝殿] 拝殿
[向拝]
[向拝竜]
[拡大]
拝殿
[木鼻左]
拝殿
[木鼻右]
拝殿内
[欄間]
[本殿] [本殿]
妻側01
[本殿]
妻側02
[刻銘]
拝殿虹梁
04.05.28

[薬王寺]と比較のため頭貫多数掲載。

本殿頭貫は四代伊八信明他数名が関わっているそうです。

拝殿頭貫:四代信明は[01][06] 本殿頭貫:[01]
他は道友の作風、その他の彫工は管理人には判定出来ません。

[拝殿右]
[拝殿向拝]
[向拝竜]
[拡大]
拝殿向拝
[木鼻・左]
[木鼻・右]
幣殿欄間
[左]
[右]
拝殿頭貫
[01]:四代信明の作風
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]:四代信明の作風
本殿
[左側]
[左後]
[右側]
[右後]
[後側]
[後右]
本殿頭貫
[01]:四代信明の作風
[02]
[03]
[04]
[05]
[06]
[07]
[08]
[上へ]
薬王寺(東金市上布田301) 04.05.31

不老山薬王寺は市内上布田字布田前にあって、かつては顕本法華宗であったが現在は単立寺院である。
延享二年(1743)二月火災に罹って古記・什宝多数が灰になった。
現在の本堂はその後再建されたものである。


道友の作と想われる部分を抜粋。手水舎は不明。

「本堂向拝柱下銅製鋳物柱巻の刻銘」

明治二九年二月八日
當山二八更 僧正日建代
向拝再建 銅葺新調

大工棟梁 千葉県大網町
西川主水
同       同町
宮崎繁八

彫刻師 同県下総公津村
中村交文

鋳物師 千葉県大網町 中屋喜三郎

東京市大門通油町 梅田仙吉


佐倉市肴町屋台彫刻・明治二六年に浅草・中邨交文とあるが、同一人物。
*
実はこの中村交文が嶋村道友であったと云うのは、本日I師から聞きました。04.08.04

向拝再建

[本堂]
[懸魚]
[向拝中備]
[向拝竜]
[拡大]
[笹に虎]
[波に鷲]
向拝木鼻

[見返り・左]
[頭貫・左]
[見返り・右]
[頭貫・右]
向拝手挟

[左]
[中左]
[中右]
[右]

本堂母屋
[左]
[右]
鋳造桶
[嘉永六]
[鋳造師]

向拝柱巻き
[柱巻刻銘01]
[柱巻刻銘02]
[柱巻刻銘03]
03は
中村交文
本堂左側

[頭貫01]
[頭貫02]
[頭貫03]
[頭貫04]
[頭貫05]
[頭貫06]
本堂後側

[頭貫01]
[頭貫02]
[頭貫03]
[頭貫04]
[頭貫05]
[頭貫06]
本堂右側

[頭貫01]
[頭貫02]
[頭貫03]
[頭貫04]
[頭貫05]
[頭貫06]
手水舎
彫工不明

[全景]
[石桶刻銘]
[懸魚・左]
[懸魚・右]
[蟇股・波亀]
[年代墨書]
慶応二年
[上へ]
薬王寺入り口前の神社八幡神社(東金市布田) 05.02.06

作風から中村交文に相違なし。

鳥居の年代は明治三十三年九月建立

[鳥居]
[拝殿]
[年代]
[向拝]
[竜]
[拡大]
[裏]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
[上へ]

嶋村俊準(嶋村文治郎)・・・俊正門人。本流仕手方、資料・作、殆ど不明。

倅俊明は十六歳時[十代唐四郎]を名跡。

南総に作があるようで、師匠にあたる嶋村俊正の銘も確認できるという。

[上へ]

七代・嶋村俊矩(嶋村源蔵)・・・嶋村七代目、六代嶋村源蔵俊規の倅

父親の六代俊規と共に身延山諸堂彫刻行脚をしている、個人銘の作・刻銘は発見されていない。
年代は文政・天保(1818~1843)頃の人とみられる。

「八代源蔵俊表は天保十三年頃に名跡したと想われる(氷川神社・本殿彫刻)」

俊矩の娘婿は俊準(文治郎)で俊正の門人。

安政元年(1854)甲寅十一月二十日没

[成田山新勝寺・一切経堂]
*
[上へ]

六代・俊規(嶋村源蔵)・・・五代俊準・長男

「氷川御宮彫注文積帳」に源蔵の署名に「俊規」の印 、他に刻銘・墨書きは発見されていない。

「六代源蔵俊規から御用勤を外れる」→「後藤茂右衛門五代後藤正綱」の時

嶋村家は代々、心門院様御廟御用勤・日光山修復御用勤であった。

十代和泉但馬(九代和泉良安の長男、幼名:小三郎)は後藤流長坂猪之助友雅の門人となる。

幕府作事大棟梁・九代和泉良安の口利きで五代茂右衛門後藤正綱に御用勤指名替えしたと、考えられる。

六代嶋村俊規は倅の七代俊矩と二人で山梨県の身延山諸堂の彫刻行脚をしたと伝えられるが、
殆どの諸堂は明治以降に再建されており、古い嶋村系構図は発見できなかった。
隈無く廻ったわけではないのでまだ他に在るのかも知れない。

嶋村家は三代俊実より五代俊準まで御用勤であったため、一般の宮大工との付き合いがなく仕事は無いに等しい。

氷川神社(川越)墨書きから、寛政・文化・文政(1789~1829)の頃の人と推定。

弘化元年(1844)甲辰十二月六日没。
*
「推定」
[成田山新勝寺・一切経堂] 経堂向拝
文化六年(1809)再建
東福寺・外陣欄間
(草加市神明1丁目3番43号)[地図]
文政七年(1824)再建
嶋村と墨書あり
[上へ]

[芝山仁王尊]ファイルへ

芝山仁王尊・三重塔(観音教寺)・各階の尾垂木・蟇股・支輪 03.03.12

建立は擬宝珠に文政九年(1826)[年代刻字]

尾垂木・蟇股・支輪等の構図も古い、[香取郡嶋村系彫工の作]と想われる。

三重塔

[資料]

[全景]

[一階右]

[1.2階右]
連三斗・斗組

[正面]

[正面02]

[左側]
[拡大]
[後側]
[右側]
[拡大]
連三斗・斗組

[2階正面]

[2階尾垂木]

[2階尾垂木右]
正面蟇股

[中拡大]

[中・莫]

[右・象]

[左・鳳凰]
左側蟇股

[右・]
[中・]
[左・]
後側蟇股

[右・]
[中・]
[左・]
右側蟇股

[右・]
[中・]
[左・]
正面蟇股

[1階全体]
[上へ]

五代・俊準・・・俊実門人・(嶋村源蔵、後に嶋村唐四郎)

三代俊実の子四代源蔵松之助(幼名)早死(行年二十二才)、依嶋村家相続
心門院様御廟御用勤、日光山修復御用勤


したがって、一般の社寺に作品は殆ど見られないし発見されていない。

明和・安永・天明頃(1764~1789)活躍

[龍本寺・本堂](神奈川県横須賀市深田台)・・・三代茂右衛門後藤正常「推定」
※御用勤の嶋村流批判とも取れる文字の彫物あり。

「推定」
[上へ]

嶋村貞亮(さだすけ)・・・三代俊実門人・嶋村丈右衛門(市東半平)上総産。元文三年(1738)生。

[嶋村丈右衛門=市東半平] 波の伊八こと、武志伊八郎信由の師匠

[香取郡嶋村彫工]の下絵と同じ。

市東半平(四十歳)鏡忍寺宮殿
安永六年(1777)十二月二十日
[波の伊八美術館]
「鏡忍寺棟札」
彫物細工 同苗(市東)丈右衛門
鴨川市某神社・本殿小脇板「墨書」 薬王院・本堂向拝(鴨川市粟斗)「推定」
妙法寺祖師堂上棟
明和九年(1772)
「妙法寺棟札」
明和九壬辰年二月十六日上棟
上総國夷隅郡植野村 彫物大工 市東半平
房州長狭郡打墨村 彫物大工 武士伊八
最新の[妙法寺・仁王門] 07.04.30 妙楽寺・本堂・・・O氏情報・画像提供

本殿:享保十年(1725)

「欄間墨書」
同國同郡植埜邑
彫物大工
市東半平
貞亮

妙法寺・仁王門(東京都杉並区) 04.05.30

仁王門
[全景]
[正面頭貫]
[斗組・竜]
仁王門虹梁
[竜]
[裏]
[正面拡大]
[左・拡大]
[右・拡大]
仁王門木鼻
[前・左]
[前・右]
[後・左]
[後・右]
仁王門蟇股
[01]
[02]
[03]
[04]
[05]
[上へ]

嶋村伊三郎

八坂神社・拝殿(土浦市真鍋町2126) 享和元年(1801) 拝殿向拝象鼻「彫刻師 常府中 嶋村伊三郎忠友」

西光院本堂(八郷町吉生) 04.03.21参拝

彫工 寛政五年(1793)
当國 府中産 嶋村伊三郎

圓鉄門人に甚七(常州府中住)→甚内(甚七男)(常州府中住)→甚次郎(甚内男)後八郎右衛門改(常州府中住)

[八郷町から]
[本堂01]
[本堂02]
[資料01]
[資料02]
[頭貫01]
[頭貫02]
[欄間・左]
[中央・左]
[中央・右]
[欄間・右]
[上へ]

四代・松之助・・・俊実実子・宝暦五年(1755)乙卯没、行年二十二才

松之助は幼名

おそらく四代嶋村源蔵を形式的に襲名したので、五代源蔵は門人名跡名・唐四郎に改まる。

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三代・俊実・・・圓鉄門人・(嶋村唐四郎)・甚八(延実)舎弟・神田紺屋町住 名人

二代圓鉄より嶋村家相続。
幕府御用勤につき一般社寺に作は少ないと想われるが、近年作が発見された。

宝暦七年(1757)五月二十二日没

鴨川市某神社・本殿脇障子 裏面墨書き
武州江戸 彫物師
嶋村唐四郎作 宝暦二年六月廿八日
宝暦二年(1752)
清澄寺厨子
(鴨川市清澄322-1) [地図]
小脇板「昇竜・降竜」 (墨書)
嶋村唐四郎 享保十六年(1731)
推定
*
調神社(つきじんじゃ)・旧本殿
(さいたま市浦和区岸町3-17-25)[地図]
彫物製作年代:享保十八年(1788)
[成田山新勝寺・鐘楼] (成田市) 享保七年(1722)建立
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嶋村延実・・・二代圓哲門人・甚八・東都霊厳島住。三代俊実の兄弟子

三代を名跡した俊実と比較すると腕が落ちますね。

称念寺(長南町千田)・中門(向唐門)・本堂向拝 04.06.19

現本堂は棟札により享保十二年(1727)建立始め、同十五年竣工

大工 古沢村(現岬町) 古市三郎兵衛他二名
彫物大工 奉免村(現市川市) 甚八(嶋村延実)

中門
[正面]
[後から]
[蜃01]
[蜃02]
[蜃03]
[蜃04]
[支輪]
本堂

[正面]
[向拝]
[資料]
向拝

[正面中備]
[左・蟇股]
[右・蟇股]
向拝木鼻

[左1]
[左2]
[右2]
[右1]
向拝手挟

[左から]
[右から]
[上へ]

二代・圓鉄・・・俊元長男・通称八郎右衛門、後に籐八入道円鉄と号し剃髪して諸国を遍歴。

元禄・宝永・正徳頃の人。
名人なり、 享保五年(1720)庚辰五月八日没 墓は茨城県大和村の雨引観音。
現在は桜川市本木1 [地図]

[成田山・新勝寺]

刻銘・資料等あり
*
[新勝寺三重塔](成田市)
「無関圓鉄・正徳元年(1711)」心柱に墨書き
[新勝寺光明堂](成田市)
元禄十四年(1701)「棟札」
大杉神社・本殿玉垣(茨城県稲敷市)「伝」
正徳三年(1713)
大前神社・本殿(真岡市東郷937)[地図]

宝永四年(1707)本殿改修:棟梁・[藤田孫平治]
彫工:[嶋村圓鉄] [ホームページ:本殿彫刻]

宝暦十二年(1762)本殿・拝殿彩色大修理、屋根葺き替え
棟梁・[初代磯辺儀左衛門信秀]
雨引観音楽法寺(茨城県桜川市本木1) [地図]
[公式サイト]
本堂(観音堂):天和二年(1682)
椎尾山薬王院・三重塔
(桜川市真壁町椎尾3178)[地図]
宝永元年(1704) (本堂・山門)
初重連子窓部(十六羅漢)
嶋村圓鉄
「推定」
*
[滑河観音]・本堂向拝竜
元禄十年(1697)
観福寺・観音堂(佐原市牧野) 元禄年間(1688-1704) 04.08.01

高松又八邦教系の古い構図だが、彫工は不明。

年代的には圓鉄・又八だが、圓鉄とは構図・作風が違う。

[鐘楼]
[案内]
[厄除け看板]
[年代資料]
[観音堂]
[向拝]
[左側]
向拝
[竜]
[拡大右から]
[裏側]
[木鼻・左]
[木鼻・右]
観音堂頭貫

[01]
[02]
[03]
[04]
大杉神社・本殿玉垣(茨城県稲敷市桜川) 07.04.04

平成十九年・彩色完成。

正徳三年(1713)
玉垣の二十四考は嶋村圓鉄と云われている。


[門・虹梁上・竜][拡大][左から拡大]は磯辺の構図(下絵)と作風。

三代磯辺儀左衛門信秀歳重「推定」

[拝殿正面]

[拝殿・本殿、左から01]
[拝殿・本殿、左から02]

[拝殿木鼻・左]
[拝殿木鼻・右]
[玉垣・左側]
[王褒]
[董永]
[丁蘭]
[田真・田広・田慶]
[楊香]
[黄香]
[朱寿昌]
[呉孟]
[姜詩]
[玉垣・背面]
[江革]
[王祥]
[大舜]
[郭巨]
[陸績]
[孟宗]
[門・虹梁上・竜]
[拡大]
[左から拡大]
[玉垣・右側]
[剡子]
[癒黔婁]
[蔡順]
[唐夫人]
[庭堅]
[老来子]
[文帝]
[閔損]
[曽参]
[上へ]
芝山仁王尊・山武郡芝山町

本堂「向拝虹梁」・仁王門「欄間」・三重の塔「欄間・蛙股」・山王社「向拝虹梁」

仁王門の完成は明治十五年(1882)、嶋村系の彫刻と想われる。
[十代嶋村俊明]と判明。

04.07.01
最近、副住職にお聞きしたところ
本堂・三重塔・山門(仁王門)の彫工は不明と言っておりました。

本堂 本堂・
向拝の竜
観音教寺
資料
観音教寺
三重の塔
正面
斗組の竜
尾垂木
蛙股
獅子
仁王門
資料
仁王門
仁王堂・左
後ろの
彫刻
芝山仁王尊・本堂(観音堂)・向拝中備・堂内欄間3面

03.03.12 03.03.15以下参拝

観音堂資料によると堂内欄間彫刻は「嶋村円哲」と云われているが、
資料では享保十(1726)年とある、圓鉄は享保五(1721)年没だから違うことになる。

となると門人高弟の延実か舎弟の三代・俊実になるが、延実は上手でない。
出来上がりから観れば三代俊実の作と想われるが、
嶋村家は当時幕府御用勤につき、一般社寺に作は無いと想われる。

ところが、平成十九年(2007)千葉県鴨川市の某神社(脇障子)
[三代嶋村俊実]の墨書が発表された。

本堂向拝竜   [向拝竜]   [顔部分拡大]  [三代俊実]とは作風が違う。

[香取郡嶋村系彫工の作]と想われる。

本堂

[本堂]

[向拝中備]

[向拝竜]

[向拝竜裏]
本堂向拝

[木鼻左]

[木鼻右]
本堂欄間

[左側]
本堂欄間
中央

[左] [右]
本堂欄間

[右側]
天井絵
仙女

[右]

[左]

[署名]
観音教寺・本堂 05.11.16

[香取郡彫工]

向拝竜
[竜]
[拡大]
木鼻
[左]
[右]
[上へ]
成田山新勝寺光明堂 02.12.23

中備、欄間「元禄十四年(1701)・島村圓鉄」棟札に墨書き

[光明堂]

[正面]

[正面]
03.03.20
[中備]
本堂右
[中備]
本堂中央
[欄間]
本堂内陣
[右]鳳凰
[中央]牡丹
[左]鳳凰
[額]
本堂裏
彫刻は亀
彫りが深く
上手である。
[額の刻銘]
五代?
後藤正綱
[上へ]
成田山新勝寺三重塔 02.12.23

外部脇間羽目板、欄間「無関圓鉄・正徳元年(1711)」心柱に墨書き

十六羅漢


宮大工は常州那珂郡羽黒村 桜井瀬左衛門
竜の尾垂木は次棟梁 藤田孫平次

[がらくた置場]・・・有名寺院のことはココで殆ど分かる。

[下総成田山新勝寺]

[正面]
[右]
三重塔
[羽目板01] [羽目板02] [羽目板03] [羽目板04] [羽目板05]
[羽目板06] [羽目板07] [羽目板08] [正面] [右] [後] [左]
蟇股
[上へ]